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【第2部】Vol.2 ブルースカイ・ブルー
(1)
あたたかく柔らかな明かりに照らされたグランドピアノが艶やかに光っている。
30代と思しき女性ピアニストは、さざ波のように店のそこかしこで交わされている会話を邪魔しない程度に柔らかくBGMを奏でていた。
客からのリクエストならどんなものでもこなすが、それがないときに主に演奏するのはクラシックやジャズだ。いまは、古いジャズナンバーを弾いている。
「ありがと、東子。助かったわ」
店の中に戻り、腰を下ろしてひと息ついて、蒔麻は隣に座った東子に礼を言った。
「どういたしまして。蒔麻ちゃんの役に立てたんなら良かったわ」
同行者が帰り蒔麻だけになってしまったので、1人テーブルについている東子は顔を寄せて小声で答える。いまの立場は客とホステスなので、周囲に聞こえないようにするためだ。
知り合ったのは東子の息子である格を介してだが、2人で出掛けたり、東子1人で蒔麻の家を訪ねたりと、格抜きでも親交を深め合った2人は、互いの存在の重さも、そして互いの呼び名も出会った当初から変化している。
東子は席を立った時に頼んでおいたフルーツをボーイから受け取り、テーブルに置いた。
そして、ボーイが去るのを待ってまた話し出す。
「やっぱり関東一の組長さんってすごい迫力ねえ。外見は全然厳つくないのに普通の人とは貫禄がまったく違うんだもの」
「あれがあの方の怖いところよ」
蒔麻は頷いて、着物の襟元を僅かにゆるめた。
つい先ほどまで同席し、2人が店の前まで見送りに行っていたのは、関東一円のヤクザを傘下におく荻生会の現会長・沢渡和衛だ。
沢渡と会う時、蒔麻はいつも自分が緊張していたことにあとから気付く。面と向かっている時は恐ろしさも息苦しさも感じないのだが、それでも伸ばした背筋から力が抜けないのだ。
60歳を少し超えている沢渡は、ダブルのスーツがよく似合うロマンスグレーの男で、一見すると会社経営者か資産家かといった風情で極道の男には見えない。品も良く、堅気の人間の振りをすることも可能だった。
だが、ひとたび極道として口を開くと見た目の印象ががらりと変貌する。
低く響く声には圧倒的な貫禄と力があり、凄みのある極道口調で話すと堅気の人間とはとても思えない凄絶な空気を背負う。目配せひとつで数千人が動き、ひと声で場の雰囲気を一変させるカリスマ性は、さすがに関東最大組織のトップといえた。
「前の会長さんがシゲちゃんだったのよね?」
「しげちゃん?」
「あ、ごめんなさい。神宮寺サン」
「――御大ったらここに来てるの!?」
出てきた名前の思いがけなさに、蒔麻は目を見張って問い返した。
「うん、3日前に初めてね。格から聞いたみたい」
荻生会の前会長である神宮寺茂生と格とは、70歳以上年の離れた友人同士である。メールの交換や、時には会うこともあるようで、たしかにいつ東子の話が出てもおかしくはなかった。
上品でしとやかな銀座よりも華やかで派手なホステスの多い六本木に行きつけのクラブが多く、80歳を超えた今でも若いホステスとデートをすることもある男だが、格の母親ということもあって東子に興味を持つのもあり得ないことではない。
そして、東子の持つ朗らかさと華やかさを、会えば一発で気に入るだろうと蒔麻は思っていた。
「飲み方のすごくきれいな人よね。さすがだなあと思っちゃった」
「そこはまあ…ね。年齢分以上の経験をされている方だから」
東子の言う“飲み方”とは酒を飲む仕草ではなく店での過ごし方のことだ。
金と地位を持っていて、店もホステスも我がもののように騒ぐ輩は、ヤクザであれ他の業界の者であれ少なくない。高級クラブではさすがにそういう傍若無人な客はいないが、その中でも会話や時間、頼むものなどで、その客がどこまで飲み慣れているかがわかる。
「でもここ、紹介がないと入れないでしょう?」
「それがここの会員の芸能事務所の社長さんの紹介で…」
「…ああ、御大ならそういう“お知り合い”もいるかもしれないわね」
蒔麻は得心して頷いた。
神宮寺くらいになると、間接的なものまで含めればあらゆる分野でかなりの“知り合い”がいる。その中にこの店の客がいてもおかしくはない。
蒔麻の場合は、東子の客として来店したことのある氷上と同行したため入ることが出来た。
特例として店側が目を瞑ることもあるようだが、銀座の高級クラブでは暴力団関係者の入店を禁止している店が多いという。東子の勤めるこの店は禁止とは謳っていないようだが、それでもその手の客は少ないらしい。
わかっていて今日ここに来たのは、沢渡が「華やかなところで飲みたい」と言ったからだ。沢渡にしては珍しい要望だが、蒔麻は何も問わずにここへ連れてきた。
六本木よりも銀座にしたのは、華やかとは言ったが派手派手しく賑やかにといったニュアンスとは受け取れなかったからだ。
それに、沢渡ほどの男をそう安い店につれていくわけにはいかず、それなりに高級で気の利く店と考えた時、東子の勤めるこの店しか思い浮かばなかった。
また東子ならば、相手が関東最大組織のトップだろうとまるで態度を変えることなく、そして怖がったり媚びたりすることなく接してくれるだろうという確信が蒔麻にはあった。
沢渡は、神宮寺が荻生会の会長だった頃の若頭で、神宮寺の指名により荻生会を引き継いだ。血縁関係はないが、神宮寺の忠実な片腕だった沢渡と彼に全てを譲り渡した神宮寺には、血よりも濃い繋がりがある。
長く関東一円の極道の頂点に立ってきた男の指名だけあって、荻生会は神宮寺がトップにいた時代と変わらず関東一の組織であり続けており、その力は弱まることがない。
古賀沢組は荻生会の傘下だが組織内の数ある組の内のひとつであり、古賀沢にもまた下部組織があるため、会合やなんらかの行事以外で沢渡と蒔麻が会う機会はあまりない。だが、蒔麻が神宮寺に気に入られており度々北鎌倉の邸宅に呼ばれるので、そこで顔を合わすことは幾度かあった。
今日は、何かの会合というわけではなくただ呼び出され、あることを頼まれた。電話一本で済まさなかったのはそれなりに重要な内容だったからだろう。
蒔麻は己の裁量で、その場で沢渡の頼みに応じた。組長である蒔麻を直接呼びだしての頼みなので、もとより断れるものではない。
あとは、神之倉と氷上の意見を交えて対応を考えるしかなかった。
沢渡がどうして蒔麻に話を持ってきたのかわからない。信頼されているのならいいが、何かを試そうとしているのかもしれない。
だが、不穏な感じはなかった。なんらかの作為的なものがあるとするならば、沢渡にではなく、古賀沢のポジションを狙う位置にいる誰かだろう。
「ねえ蒔麻ちゃん…さっきから気になってたんだけど、これ――」
蒔麻の帯から下がる、猫の目のように光る天然石の根付けに視線を向けて、東子が尋ねる。蒔麻は微笑んで指先で根付けに触れた。
「そうよ。東子と格くんがくれた誕生日プレゼント」
6月の蒔麻の誕生日に、東子と格はブルームーンストーンのペンダントヘッドを贈った。ロイヤルムーンストーンとも呼ばれる無色で青白い光を放つこの天然石は6月の誕生石だ。
購入資金は東子が8割を出したがこれと決めたのは格で、格はヘッドに加えてネックレスチェーンと革チョーカーとストラップを選んだ。ストラップをつけた場合は着物でも身につけられる根付けになるという寸法だ。
誕生石をプレゼントするという発想もだが、様々な使い方が出来るようにというセレクトが心憎い。
また、天然石にはそれぞれ効力があるというが、ムーンストーンにはストレスを鎮める効果があるという。
格はお守りだと言って蒔麻に手渡した。
「なんというか……まだ中学生なんて嘘みたい。将来どんな 男になるのかしらね」
「最大の欠点がなくなれば無敵かも」
微苦笑を浮かべた東子は新たに作った水割りを蒔麻の前に置いた。
「あら、東子がそんなこと言うとは思わなかったわ。欠点なんてある?」
こよなく息子を愛し、将来必ずいい男になると言い切る東子らしくないセリフに蒔麻が首を傾げて尋ねる。
東子は小さく笑って答えた。
「女の子にはやさしくって教えたのはあたしだし、フェミニストなのは悪い事じゃないと思うんだけど――それが幅広く適用しちゃうのよね。いつかそれで困ることになるかもしれないわ」
コーヒーの香ばしい匂いが、微かな冷房のモーター音と共に室内に漂ってきた。
同時に入り込んできた人の気配に、神之倉はふっと目を覚ます。
今の今まで眠っていた人間とは思えぬほどスムーズな覚醒だったが、起き上がろうとした神之倉の体は突如のし掛かってきた重みにベッドに張り付けにされた。
神之倉は横を向いていた顔を真上に戻し、両手を戒め腹の上に馬乗りになって上体の動きを封じているものを見上げた。
「……格」
「おはよ、士朗」
胴体を跨いだ体も退けず、両腕を押さえつけている手も離さぬまま朝の挨拶をし、格はにっこりと微笑んだ。
「おはよう…って、こら」
背中を丸めて唇を寄せてきた格を、神之倉は軽く叱咤した。だが格は引き下がらず、「ら」の口が閉じぬうちに唇を塞がれる。
くちづけは、深くも長くもなかった。
浅く重ねた唇を数秒で離した格は、上掛けを剥ぎつつ、仰臥する神之倉に折り重なるようにして抱きついた。そして首すじに唇を寄せて来る。
神之倉は格がそれ以上何かをする前に強引に体を起こしにかかった。いつまでも転がっていては、上掛け以外のものまで剥されかねない。
格の腿裏に左手を掛けて左手前に引きながら、右の肘を無理やり立てて上半身を起こす。突然体勢を崩されて慌ててすがりついた格ごと腹筋を酷使して起き上がり、自分の膝の上に抱えあげた。
「…事務所に来るんだろう?」
なだめるように格の膝頭をぽんぽんと叩きつつそう尋ねると、神之倉の大腿部に横座りする形になっていた格は、行くと即答した。
今日は柔道部の練習も空手道場の稽古もなく、じっくり氷上にみてもらえる貴重な日なのだ。
格は、自分の膝上に添えられていた神之倉の手をすくい上げて指先にキスをすると、すんなりとベッドから降りた。そして、
「コーヒーいれてあるよ」
肩越しに振り返って告げると小走りに部屋を出ていった。
神之倉はその背を見送り、ベッドから出てバスルームへと向かう。朝のひと浴びは自宅に戻れた時の日課になっていた。
シャワーのハンドルを回し、ふと左手の指先に視線を送った神之倉は苦笑する。
「……まったく、どこで覚えるんだかな…」
指へのキスなど、中学1年生の仕草ではない。しかも手慣れて見えるのだから末恐ろしい。
夏前あたりからだろうか。格から遠慮がちなところが消えてきた。
これまで朝にはあまり部屋に来なかったのだが、夏休みに入って時間的余裕ができたこともあり、神之倉が起床する頃を見計らってやって来るようになったのだ。
今日のように寝ているところを襲われることもあるが、今のところキス以上まで持ち込まれたことはない。その先までたどり着けなくとも、最近の格はあっさりと引き下がる。
どうやら、攻めては引くことを繰り返して機会と隙とを待つ作戦のようだと神之倉は気付いた。気は抜けないが、心理的な駆け引きよりは格らしい。
濡れた体を拭った神之倉は、バスローブを着てリビングへと移動した。自分1人ならバスタオルを腰に巻いただけの姿でもかまわないのだが、隙を狙う格の前では襲えと言っているようなものだ。
やって来てまずクーラーをつけたのだろう。リビングは快適な温度に保たれていた。
何かの雑誌に視線を落としていた格が神之倉に気付いて顔を上げ、キッチンへと駆けて行く。ソファに腰を下ろすと、戻って来た格がカップを神之倉へと手渡した。
インスタントではなく、わざわざ豆を挽いて入れたようだ。カウンターにコーヒーミルが見える。氷上が置いていっただけあってさすがにいい豆のようで、なんとも良い香りがした。
「…ん、美味い」
ひとくち飲んで感想を述べると、格は嬉しそうに笑った。
「朝メシ食う? 今朝東子が作ってくれたのがあるよ」
「そうだな……いただこうか」
「じゃ、持って来る。待ってて」
言って、格は走り出ていった。
もともとよく気がつくが、これほど甲斐甲斐しいのは神之倉に対してだけだ。めいいっぱい寄せられる好意はくすぐったくもあたたかい。
神之倉はコーヒーを飲みながら、テーブルの上にある雑誌に手を伸ばした。
格が先ほどまで見ていたその表紙には様々な格闘技の名が並んでいる。空手という文字が一番大きく載っていて新総流、柴碕流、仁武流などと流派の名と思しきものが列記されていた。どうやら、この特集を目当てに購入したようだ。
専門外の神之倉は空手の流派には詳しくないが、古流で聞いたことがある名があるような気がする。
ぱらぱらと雑誌をめくっていると、格が大きなトレーを手に戻って来た。
白米、豆腐とホウレン草の味噌汁、切り干し大根、鮭の西京焼き、茄子と茗荷の漬物と、見事な和食だ。
見た目も気持ちも若々しい東子だが、自身が作るものも格が教わっているものも、洋食よりは和食が多かった。東子によると、そもそも東子に料理を教えてくれた亡夫が和食好きだったかららしい。
「わりィ、魚焼いて漬物作ってたら時間くっちゃった」
皿をトレーからダイニングテーブルに移しながら格が謝る。
「また渋いもんを作るなあ」
「これ即席漬けだから10分くらいで作れるんだよ」
「誰に教わった?」
「氷上」
「なるほどな」
酒の肴にも良さそうな一品に納得して頷き、神之倉はダイニングチェアに腰を下ろした。カウンターに備え付けられた2人用のものだが、部屋で食事をすることがあまりない神之倉にはこれで十分だ。
格はグラスに氷を入れて半分ほどまでコーヒーを注ぎ、冷蔵庫から取り出した自分用の牛乳を注ぎ足した。ミルク入りのアイスコーヒーというには明らかに牛乳の量が多いが、1日に1リットル以上牛乳を飲んでいる格はよくこういう飲み方をする。
「喉、やっと落ち着いてきたな」
「ん? うん、掠れなくなってきた」
神之倉の向かい側に腰を下ろした格は頷いて、何かを確かめるように自分の喉に触れた。その声は以前よりいささか低い。
掠れ声になって数日間は、喉風邪だと思っていた。もともとそれほど高い声ではなく、中身も外見も大人びていたので、声変わりというものをすっかり失念していたのだ。
「背中や膝は痛くないか?」
「そっちは全然。去年1年でけっこう伸びたのに、今年は春からあんまり変わんねーんだよ。これで打ち止めだったらやだなあ」
伸びてくれと念じるように己の頭頂部を撫でながら嘆いた格は、テーブルに突っ伏してため息をついた。
「まだまだこれから伸びるだろうさ。二十歳超えてから伸びる奴もいるしな」
「士朗はいつ頃が一番背ェ伸びた?」
「そうだな、正確には覚えてないが――お前くらいの年の頃から3、4年で25センチ近く伸びたかな」
「25……でも士朗くらいあればそんな感じなのかな」
神之倉の身長は187センチと平均的な成人男性からすると大柄だ。加えて氷上が185センチと、古賀沢組の双璧は見た目でも高い壁だった。
格としては2人の強さだけでなく身長も目標としているのだが、そこまで背が伸びた自分というのはまだ想像し難い。
「……なあ」
「ん?」
箸が止まるのを見計らって投げ掛けられた格の声に神之倉が応じる。
「士朗は、俺がでかかったり低い声だったりしたら嫌か?」
格は、この数日間心に懸かっていたことを尋ねてみた。
自分はどうあるべきか、どうありたいかを考えて、心だけでなく物理的な強さをも追い求めている。
だが、そもそも神之倉に男色嗜好はない。たとえば格が筋骨隆々の大男になったとしても、受け入れてくれるのだろうか。華奢ならばいいというわけではないが、それでもむさ苦しいよりはいいのかもしれないと思わないでもないのだ。
テーブルに俯せたまま視線だけ上げてじっと表情を窺っている格に、箸と茶碗とを置いた神之倉は笑みを浮べてみせた。
「背が伸びようが、声が変わろうが、お前がお前であることに変わりはないだろう」
「…ムキムキのマッチョになっちゃったりしても?」
「お前がそうなりたいなら止めないが…目指すのはそこなのか?」
「違うけど…」
格が格であればいい、望むのならば止めない――存在そのものを受け入れてくれている、そんな言葉が嬉しくて、つい頬が緩む。
神之倉は手を伸ばし、格の前髪を指先ですくって瞳を覗き込むようにして上体を倒した。
「ごちそうさん。美味かった」
「…うん」
「支度して来い。出掛けるぞ」
「――うん」
格は顔を上げ、笑顔を返した。
2人でまとめた食器を移したトレーを手に足早に自宅へと戻る格を見送って、神之倉は着替えをしに寝室へと向かった。
「…何の騒ぎだ?」
神之倉と格が連れ立って古賀沢組の本部事務所までやってくると、事務所内の空気がいつもと違っていた。
組員がひっきりなし出入りし、落ち着きがない。組員たちの表情には困惑と苛立ちが入り混じっている。
「若頭!」
神之倉の姿を認めた若い組員が走り寄ってきた。
「何があった」
「それがその、高校生くらいのガキが1人やってきまして」
「ガキ? 男か?」
「女なんすけど、突然現れてずかずか上がり込んで来たと思ったら、暑いやらアイス食いたいやら水買って来いやら…」
「どこだ?」
「応接室です」
聞くなり神之倉が歩き出す。組員も慌てて後を追い、待つようには言われなかった格もそれに続く。
「上がり込まれる前に何故制止出来なかった?」
歩きながら振り返らずに神之倉が問い掛けた。
「物慣れてるんすよ。脅しても怖がったりとか全くしねえんで」
「……名前は?」
「それが、あんたたち下っ端に名乗りたくない、と」
「――四代目は笠井組の組長と会ってるはずだな」
「はい。佐伯のアニキにつながったんで伝えておきました」
今日は氷上と佐伯が同行していた。氷上は恐らく蒔麻のそばについているだろう。そうなれば事務所とのやりとりは佐伯の仕事になる。
ともあれ、女子高生の来客予定はないはずだ。たとえ事後承諾だとしても、若頭である神之倉が聞いていないということはまずない。
応接室まで辿り着いた神之倉は、なんの躊躇もなく部屋へと入った。
「遅い! 水買ってくるだけで何分待たせ――」
応接室の革張りのソファに腰を下ろしていた少女が扉の開放音に反応して振り返り、怒声をあげかけて口を噤む。
マスカラで長く縁取られた目はぱっちりとしていて、まなざしは少々きつめで猫の目のようだ。カラーコンタクトを入れているのか瞳の色はペールブラウン、毛先の方だけくるくるとカールした髪はオレンジがかった茶色。フルメイクだが、肌艶も顔立ちも十代のそれだ。
彼女は立ち上がり、ゆっくりと神之倉へと歩み寄った。
濃い茶色のレースをあしらったピンク地に花柄のキャミソールと白いミニスカートに包まれた肢体は、手足こそ細いが胸はあり、表情以上に挑発的だ。
「あんた、ここの偉い人やね」
艶やかに光る唇から投げ掛けられた言葉は、質問でも疑問でもなく断定だった。
「…何故そう思う?」
「見ればわかるわ。ええスーツ着てるし、落ち着いてるし、男前やし」
神之倉の頭のてっぺんから爪先までをじっくりと眺めて少女は答える。そして、腕を組んで神之倉を見据え、ふっと笑った。
「でも残念。あたし、10歳以上年上は守備範囲じゃないねんよ」
「…っのガキ…! いい加減にしろよコラァ!」
ふてぶてしく傍若無人な態度に、神之倉に少女のことを告げた組員が声を荒げる。
だが神之倉はそれを片手を上げるだけで制して、少女に向かって訊ねた。
「名前は? 下のもんでなければ名乗るんだろう?」
「ルリ。あんたは?」
「神之倉。若頭を務めてる」
「かみのくらサン、ね。しばらく世話になるわ。ヨロシク」
「……苗字は?」
「そのうちわかるわ。それより若くてええ男もいるやん〜」
ルリと名乗った少女は続く問いをいなして、神之倉の体の向こう側へ視線を向けた。
そこに立っているのは、声を荒げた組員の他には1人しかいない。
ルリは神之倉の横をすり抜けて、扉をくぐらずに待っていた格に向かって小走りに近づいた。そして、状況がつかめないでいる格の顔や体を見つめ、にっこりと笑う。
「あたしルリ。なんて名前なん?」
「え? あ、格…」
「よろしくね、いたる」
初めに放たれかかった怒声とも、神之倉との会話とも違う甘みがかった声に、そばにいた組員がこめかみの辺りをひくりと引きつらせた。
だがルリは気付いているのかいないのか、そんな組員には見向きもせずに格に笑いかけている。
肩越しに振り返ってそれを視界に収めた神之倉は、ふとルリの正体に思い当たり体を反転させた。おそらく間違いないと確信し、問い質すべく足を踏み出す。
そこへ、電話機が内線での呼び出しを知らせた。応接室であるため、外線のベル音は消してある。
一番近くにいた神之倉が組員より早く歩み寄って受話器を取り、控え目な呼び出し音を鳴らし続けていた電話に応答した。
『あ、若頭、そちらにいらしたんですか。お電話です』
「俺にか?」
『はい。四代目か、若頭か、本部長はいるか、と』
「わかった」
神之倉は、誰からとも問わずに電話を外線に切り替えた。誰からの電話なのか、なんとなく予想がついたのだ。
そして、電話を掛けてきたのは神之倉の予想通りの相手だった。
『神之倉か? 俺や』
「伊庭さん」
錆を含んだその声を、何度か聴いたことがある。会ったのは2、3度だが面識もあった。
伊庭康隆は、関西で最も力のある山城組の若頭を務めており、関西最大組織である山陽会の現会長の右腕でもある。その役職どおり、関西での伊庭の名と力は大きい。
2日前、神之倉は蒔麻から伊庭が関東にやって来ると聞いた。表立ってのものではなく、むしろお忍びに近いのだという。そして、荻生会会長からの要請で、関東にいる間は古賀沢の客分として迎えることになった。
以前は神之倉も氷上も暮らしていた古賀沢邸には、現在は蒔麻と十数名の組員、そして昔からの家政婦親子が住んでいるが、伊庭が来るということで昨日から氷上が戻っている。場合によっては神之倉も戻るつもりでいた。
「どうかされましたか?」
『そっちに若い娘が行ってへんか?』
伊庭への問いへさらなる問いが返される。神之倉は己の予感の正しいことを知り、扉の方を振り返った。
だがそこに少女はいなかった。いや、たしかにいたのだが、神之倉の目が捉えられたのは廊下に走り出ていく後ろ姿だけだった。
そして同時に、少女に腕を引かれて格までもが神之倉の視界から姿を消した。
「おいコラ…ッ何を――!?」
すぐそばにいた組員が、ルリの思いがけない行動に慌てて廊下に顔を出す。
コード付きの受話器のため移動が出来ず、相手が伊庭であるため切ることも出来ない神之倉は、電話機本体ごとひっつかんで窓際に移動した。
何とか電話線の長さも足り窓下を見下ろすことが出来た神之倉は、事務所から飛び出した2つの人影を目で追う。
ルリに強引に引っ張られているように見える格が事務所を振り返った。
『神之倉?』
「 …若いお嬢さんなら今の今までたしかにここにいらしたんですが……」
『……逃げたか……』
電話の向こうで伊庭が苦々しく呟きため息をついた。
『なにか迷惑かけたか? あのアホ、どこからか俺がそっちに行くと嗅ぎつけたらしくてな』
「あのお嬢さんは、伊庭さんの――」
『おう、娘や』
ルリの正体を半ば予想できていた神之倉にはそれほど驚きはなかった。驚くよりも、予想していなかった事態に対する困惑が大きい。
そして、連れ去られた格も同様だろう。振り返り、窓際の神之倉の姿を確かに目で捉えていた格の表情は驚きではなく困惑に満ちていた。
神之倉はルリの扱いに関する伊庭の希望を聞いた上で、組員に2人を捜すように命じた。
笠井組組長との会談を終わらせ急ぎ事務所に戻ってきた蒔麻と氷上は、帰るなり事の次第の説明を求めた。
「――…この馬鹿」
氷上は話を全て聞き終わると、そう言って呆れたようにため息をつき、神之倉の首に片腕を回して頭を強引に引き寄せて低く囁く。
「させねえっつったのはどこのどいつだよ?」
氷上の言葉は主語が抜けていたが、いつどこで交わした会話を指しているのか神之倉には判った。
梅雨の頃、のんびり構えていると横から攫われるぞと言った氷上への神之倉の答えのことだ。
いまでも神之倉には他の誰かに格を攫わせる気はないが、よもやこういう形で物理的に、そして唐突に連れ去られるとは思ってもみなかった。
「それで、伊庭さんは予定通り3日後に来られるのね?」
神之倉の動きを封じている氷上の腕をたしなめるように柔く叩き、蒔麻が訊ねた。
蒔麻に促されるようにして開放された神之倉は、歪んだネクタイの位置を直しながら答える。
「はい。そのかわり、今日中に息の掛かった人間を2人寄越す、と」
だからそれまで頼むと言われたのだが、いまだにルリと格は見つかっていない。
いなくなってから1時間が経過していた。
あまりブラブラさせずにおいてほしいというのが伊庭の希望だったが、まずは見つけなくては話にならない。
「その娘の携帯電話は応答なしなんだな?」
氷上の問いに、神之倉は頷いた。
伊庭から聞いた番号に何度か掛けているが、はじめは呼び出すものの応答がなく、何度目かには電源が切れているか電波が届かないとアナウンスされるようになってしまった。
格の携帯電話は持っていたリュックごと廊下に置き去りにされており、格に連絡を取ることもできない。
「若い女の子なら――ありきたりだが渋谷ですかね?」
「そうだとしても見つけられるかしら?」
氷上の言葉に蒔麻が眉を寄せた。
足繁く通う場所があるなら見当をつけて探すことも出来るが、関西在住のルリにそういった場所があったかどうかわからない。それに、若い娘の多く集まる街にいるのだとしたら、大抵は真っ昼間にヤクザ者が人捜しをするには人目が多すぎる。
だからといって、伊庭が関西極道の重鎮で古賀沢の客人であるからには放っておくわけにもいかない。また、そんな重要人物の娘であり、しかも父親の上京がお忍びときては、組員よりはまだ堅気の人間に近い末端の構成員を捜索に駆り出すことも出来なかった。
「行きそうなところにはダメ元で人を出すとして、一緒にいるのが格でよかったかもしれねえな」
軽くため息を吐きつつ氷上が腕を組んだ。それから蒔麻に視線を遣る。
「あいつは聡いヤツですから、連絡してくるかもしれません」
「そうね…」
心配そうな顔の蒔麻に向かって励ますように言った氷上に同意の言葉を口にしながらも、蒔麻は楽天的ではいられなかった。
数日前に東子が口にした言葉が思い出されてならない。
そして、今日ルリを目にしている組員を全員集めるよう内線で指示を出した神之倉も、氷上と蒔麻に背を向けたまま気付かれぬようそっと息をついた。
−続−
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