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【第2部】Vol.1 アンバランス (2)
乾いた床板を踏み鳴らす音が、古賀沢組事務所ビルの地下に響く。
小気味よいそれを聞きながら、氷上は神之倉の姿を眺めていた。
先代組長が道楽で作った道場で、木刀を手にした神之倉が型をさらっている。久方振りの黒い道着の袴の裾を捌き、大きく踏み出すと同時に逆袈裟にすくい上げた剣先が鋭く弧を描いた。
かつて修めた流派の基本型をなぞる動きは、いつもながら無駄がなく滑らかだ。
やがて、腰に刀を戻すようにして木刀を引いた。姿勢を整え、静かに息を吐く。
「…どうしたっていうんだ?」
氷上はすぐには声を掛けず、しばらく待ってから神之倉の背中に向かって問いを放った。神之倉は木刀を壁の木刀掛けに戻し、氷上を振り返る。
「たまにはやらないと鈍るからな」
ここ2、3年回数が減っていたが、鈍ると言っては道場に籠るのは初めてではない。
だが、せわしない時にそれをすることはあまりなかった。
「なにか用事か?」
「いや、お前が道場にいるって佐伯に聞いて、珍しいなと思ってさ」
「それほど珍しくもないだろう」
「言われてみりゃあそうだな」
年に数回あれば珍しいとまでは言わないかもしれないと、氷上は納得して頷いた。
「やっぱり少し鈍ったな。切れが悪い」
軽く息をついて神之倉が言う。
氷上は眉間にしわを寄せて腕を組んだ。
「いまので切れが悪いなら、大抵のヤツは動きが鈍いってことになるぞ」
「そうか?」
「疲れてんだろ。佐伯に少し調整させるから休め」
「大丈夫だ」
笑みを浮かべて答えた神之倉だが、黒い道着のせいもあるのか少し顔色が冴えないように見える。
氷上は即断して首を横に振った。
「駄目だ。3時間空けさせるから寝ろ。ただでさえお前は眠りが浅いんだから」
言って、氷上は神之倉の腕を掴んだ。そして強引に引きずるようにして歩き出す。
なおも大丈夫だと繰り返す神之倉に、氷上は寝ろと言って譲らなかった。
無理を無理とも思わずに多少の過密日程も乗り切ってしまえる神之倉を適度に休ませるのも、氷上の仕事のひとつだった。
初めて神之倉の寝姿を目にしてから4日後。
古賀沢組の事務所ビルの前で、格は躊躇していた。
いつもなら気軽に入っていき、すっかり馴染んだ組員たちも声を掛けてくれるのだが、今日はなんとなく入りづらい。
だが、いつまでも事務所の前でうろうろしていては不審だろうと焦り始めたところで、救い主が現れた。
「格くん?」
事務所前に横付けにされた車の後部座席から現れて格に声を掛けたのは、神之倉の秘書的役割を担っている佐伯だった。
振り向いた格は、車から佐伯しか降りてこなかったことに訝しげに首を捻る。
「士朗…は一緒じゃないんだ?」
「ああ、必要な資料を取りに俺だけ戻って来たんだよ。若頭に用事?」
「え? ううん、今日は――」
「本部長か。事務所にいらっしゃるはずだよ」
佐伯は心得て頷き、格の背を押して中に入るよう促した。
「よう、坊主。今日は学校ねえのか?」
「もう放課後だよ」
「お、10日ぶりだな。もっと遊びに来いよー」
「うん、サンキュ」
行き交う組員たちが気安げに話しかけて来る。顔はヤクザらしく厳つかったり凄みがあったりだが、気のいい男たちが多い。
格が氷上に合気の手解きを受けるために事務所に通い出す前から、一部の組員は格のことを知っていた。昨春、佐伯とともに銃撃された宮川という組員が情報源だ。
通い始めた当初は物珍しそうに“ヤクザの組事務所に通う小学生”を見ていた組員たちだったが、格が人見知りもなく物怖じもしないこともあり、徐々に話しかけてくる者が増え、いまではこの本部事務所の組員のすべてと面識がある。
「そうだ。佐伯さん結婚したんだよね、おめでとう」
「ありがとう。結婚っていってもいままでとあまり変わりはないんだけどね」
佐伯が一緒に暮らしていた女と正式に籍を入れたと神之倉から聞いたのは、つい先週のことだ。教会や神社等での式や披露宴などはなかったが、瀬尾を媒酌人にして蒔麻の家で盃事をしたらしい。佐伯を気に入っている瀬尾は、我が子のことのように喜んだという。
だが、幸せなはずの佐伯は苦笑に近い笑みを浮かべた。
「長いあいだ待たせた上に、友達を呼べる披露宴も新婚旅行もないからな。可哀相だとは思うんだが」
「そういうことが大事だと思う人ならずっとそばにいてくれなかったんじゃないかな?」
「――そう…だね、その通りだ」
佐伯は妻になった女の姿を思い浮かべ、格の言葉に頷いた。
籍を入れようと告げた時、花が咲くように幸せそうに微笑んだ。瀬尾が媒酌をしてくれると知らせた時も心底嬉しそうだった。
佐伯が極道の世界に足を踏み入れることになった時も、その後も、他のどこよりも佐伯のそばにいることを望んでくれた女に、可哀相だとは失礼だ。
「ありがとう」
「お礼言われるようなことしてないよ?」
格は不思議そうに首を捻った。
無意識に放たれる言葉だからこそまっすぐに胸を突く。
佐伯は微笑んでもう一度礼を言い、氷上の部屋のドアをノックした。
「――で、それから神之倉と会ってないのか?」
「…うん……帰りも遅いし、俺もなんとなく部屋に行きづらくて…」
いつになく歯切れの悪い格の話を聞き終わった氷上の問いに、格は俯きがちに答えた。
戸惑いと照れくささで神之倉の顔を見るのが躊躇われてならないのだ。
隣に住んでいるとはいっても1日や2日顔を見ず声も聴かないのは間々あることで、それが3日を越えると大抵は格の方が痺れを切らして神之倉に何らかのコンタクトをとる。電話、メール、部屋での待ち伏せと方法は様々だが、今回はまだそのどれもしていない。
「惚れた相手に欲情するのは普通だろう?」
氷上はあっさりと返すと、ソファの背もたれから体を離して格の顔を覗き込んだ。
「それともお前、今までそういうものなしにあいつに迫りまくってたのか?」
常に積極的で早熟な格らしくない狼狽ぶりに、まさか知識が先走っていただけなのかという疑念が生じて氷上が尋ねる。
格は氷上の言わんとしたことをすぐさま理解し、首を横に振って答えた。
「今までだってドキドキもムラムラもしたことあるし、気持ち良くしたいとかなりたいとか、ちゃんと思ってたよ? でも、ゆうべの士朗はなんか…すげえ色っぽく見えたんだよ。女っぽい色っぽさじゃなくて男くさい色気なんだけど、いつもよりもなんか、こう――気怠い感じで…」
うまく表現できない自分がもどかしいようで、格の口調がいつもよりもたどたどしい。
氷上はそんな格を眺めて煙草に火を点けながら「なるほどな…」と呟いた。
なんとなくわかった。神之倉はこれまで、格にあまり隙を見せなかったのだろう。
誰かの前で眠るということは、その誰かに隙を見せるということに他ならない。
しかし、眠っていても周囲の気配の変化にすぐに気付く男だ。一緒に暮らしているわけでなし、寝顔を見たことがないというのもおかしなことではない。
だが格によれば、昨夜の神之倉は目を覚まさなかった。格に対して全くの無防備だったのだ。
そして疲れからくる気怠さが相俟って、いつもと違う色を感じさせたのだろう。
「お前もなかなか野生的なオスだな」
「え?」
「弱ってる獲物は狙い目ってことさ」
隙を見せて眠っているなど据膳もいいところだ。食いたくもなる。
「で? 神之倉の方はどうなんだ?」
「わかんねえ。なんか言ってたけど寝ぼけてるみたいだったし」
「なんて言ってたんだ?」
眉間にしわを寄せて氷上は尋ねた。
声を掛けて一度で目を覚まさなかったことはないくらい、神之倉は寝起きがいい。15年ほど付き合ってきたが、寝ぼけている姿など見たことがなかった。寝言も聞いたことがない。
「ええと…うろ覚えなんだけど――じざ、た……かく…? とか?」
「なんだそりゃ?」
単語の断片すら予測出来ないそれに、氷上は首を捻る。
「だから寝ぼけて言ったみたいだろ?」
格は言ったが、氷上にはやはり寝言だとは思えなかった。だが、何を言ったかを割り出すには判断材料が少な過ぎる。
「そのあとは別にいつも通りの士朗で――でも俺、なんかすっげえ恥ずかしくって、すぐ部屋出て来ちゃったから…」
格は氷上から視線を逸らし、赤くなった顔を決まり悪げに俯けた。
神之倉が眠っているうちに襲いかかってしまえば格が主導権を握れたかもしれないと氷上は思ったが、逃げ出してしまった格の気持ちもわかる気がした。
いつも通りの相手に対して自分はいつになく昂っている。我に返って動揺してしまったのだろう。
年相応とは言い難い大人びた面も多々あるが、まだ駆け引きをすることもなく一直線で、なおかつ色事に完全に慣れ切ってはいない反応が微笑ましい。
氷上は格の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「あまり気にするな。今まで通り押しまくればいいさ」
「それでいいのかなあ? 全然効果ねーんだけど…」
格の表情が少し曇り、声が沈む。
力押しを続けて1年以上が過ぎた。だが、一向にキスから先に進めそうにない。
「超がつく筋金入りの頑固者だからな、長期戦は覚悟しとけ」
氷上は言って、寄せられたしわをほぐすように親指の先で格の眉間を和らげた。
「だがあいつは基本的に自分から行くタイプじゃないから、引くより押す方がいい。押して押して押しまくって力ずくで落とせ」
「…わかった。頑張る」
「ん、頑張んな」
格を部屋に入れた時に用意したコーヒーをひと口飲んでから、氷上は決意を込めて拳を握り締める格の上腕を励ますように2、3度叩いた。
「で、1時間弱でもよければ見てやれるがどうする? 道場は夕方からだろう?」
「ホント!? …あ…でもダメだ。約束あるんだ」
「友達とか」
「うん、シゲじいと」
返って来た答えにコーヒーを噴き出しそうになるのを、辛うじて氷上はこらえた。
昨年の夏に連絡先を交換し合い、メールや電話のやり取りどころか時折会ってもいると、話には聞いている。
だが、かつて関東ヤクザのトップに立ち今でも全国の極道に名の知られている85才の老人と、この春に中学校に上がったばかりの13才の少年が、ごく普通に友達付き合いをしているという事実にいまだ慣れない。
神宮寺も格も、それぞれの年齢の平均的な嗜好や考え方からはかなり外れているとはいえ、半世紀を軽く超えている年の差でどんな話をしているのだろうか。
「んじゃ俺行くね。忙しいのに邪魔してごめん。話聞いてくれてありがとな」
荷物を持った格がソファから立ち上がって氷上に謝り、そして礼を言った。
敬語は必要ないと出会った頃に言ってあることもあってくだけた口調で接する格だが、人に対する礼儀はきちんと身に着いている。
ヤクザ相手に全く物怖じしない大胆さが図々しさに繋がらないのは、礼儀と遠慮を知っているからだ。
そのくせ、常識家では決してない。それなりの修羅場をくぐってきたと自負している極道の人間が驚くようなことをしてのけることもある。
そこが面白い。
氷上は口の端にわずかに苦笑を浮かべ、ソファに腰をおろしたまま格の背中を見送った。
待ち合わせの場所に到着すると、神宮寺は一人で待っていた。
白緑(びゃくろく)色の着物に同色の羽織り。杖を手にちょこんとベンチに腰を下ろしている姿は、元ヤクザの大親分にはとても見えない。
一人きりには荻生会がさせないはずなのでどこかに誰かがついているのだろうが、それらしき姿は見当たらなかった。
「おまたせシゲじい」
「おう」
駆け寄ってきた格を見上げた神宮寺がひょいと手を掲げて唇の端をふっと上げる。人によっては気障すぎたりわざとらしかったりするだろうその仕草が、嫌味なく自然で様になっていた。
見た目は紛うことなき老爺だというのに、面と向かうと途端にその年齢がわからなくなる。声の張りは実年齢の10歳以上は若く、趣味や嗜好に関しては20歳や30歳では追いつかないほど若々しい。
それでいて貫禄があり、決して落ち着きなくは見えないのだ。
「お前、なにかあったか?」
「え?」
目的地のカラオケボックスに入り、二人で部屋に落ち着いたところで神宮寺が問い掛けた。
「顔色は悪かねえが、元気ねえじゃねえか。電話した時も声が沈んでたし」
今日の約束は、一昨日神宮寺から電話で誘われものだ。
神宮寺とカラオケに行くのはこれが初めてではない。洋楽から邦楽、格の知らない古い曲から最新のヒットチャートまで広く歌いこなす神宮寺とのカラオケは面白かった。
「元気ないかな? 別になんもないよ」
「神之倉と喧嘩でもしたかよ?」
神宮寺は、格と神之倉の関係を知っている。
いつから知っていたのか、正確には格にはわからない。だがいつのまにか、会話の中にさらりと出て来るようになった。
馴れ初めも経緯も聞かれなかったがなんの拘りもなく受け入れられていることを肌で感じ、格もあえて神宮寺を問い質したり構えたりはせずに神之倉のことを話題に出している。
「ケンカはしてねえよ。っていうかケンカになんねえと思う。士朗の方が余裕あるから」
これまで押しに押して来た格だが、いざとなると押し返せる余力が神之倉にはあるのだ。喧嘩をしたとしてても、最終的にはうまくいなされそうである。
そう思うと、あの無防備な寝姿も余裕の現れのような気がしてきた。そして同時にひどく興奮したことも思い出してしまい、格の頬にさっと朱が走る。
カラオケボックスの暗めの照明の下だったが、神宮寺はそれを見逃さなかった。
「どうしたよ? エロいことでも考えたか?」
「ちが――」
否、違わない。
「あいつはストイックで思慮深そうなツラして動物的なところがあるからなあ。そこにやられたヤツが、俺が知ってるだけでも何人かいたが…」
視線を逸らした格をじっと見つめて神宮寺が言った。言葉の内容に誘われたように、格がそっと視線を戻す。
「…シゲじいは、士朗の“隙”って見たことある?」
「滅多に見たことがねえ隙ってのはそそられるもんだよな」
神宮寺がにやりと笑みを浮かべた。
4日前のことについては何も話していないのに、全て見抜いているかのような返答をされ、格は頭を抱えた。
この老人にだけは全く勝てる気がしない。
「……シゲじい、あんまりいじめないでくんない?」
「いいじゃねえかよ。若くて健康な証拠だぜ」
神宮寺はあっけらかんと言い放って呵々と笑った。格はそれに苦笑を返したが、苦笑は困惑の表情に変わった。
膝に肘がつくように上体を倒して、神宮寺が格の顔を覗き込む。
「何を困る?」
「……俺は士朗のことすげえ好きだし、好きだからいろんなことしたいとも思うし……でも士朗にはいつもそういう気配ないからさ。氷上は今まで通り押せばいいって言ってくれたけど、俺相手にその気になってくれるんだろうかとか、この先ずっと俺ばっかドキドキしてんのかなとか、そんなこと考え出すとぐるぐるしてきちゃって――」
格は大きくため息をつき、肩から力を抜いて背もたれに体を預けた。
「士朗は強くて、大人で、余裕もあって――でも俺はまだまだガキで…」
「弱くてガキのお前は厭だと神之倉が言ったのか?」
「士朗はそんなこと言わないよ」
待っていると言ってくれた。焦ったり急いだりしなくてもいい、と。
しかし、物理的に戦う強さに関しては修練の積み重ねしかないと思えるが、自分がまだ子供だということについてはどうしたって焦りも生まれ、急ぎたくもなった。
幼い頃は、すぐにでも大人になりたいと思っていた。
神之倉に片思いをしていた時は、自分のペースで出来るだけ早く大人になろうと思っていた。
想いが通じたあとは、子供であることが悔しくて歯痒いことが間々あった。
今は、その思いが一層強くなっている。
「待つって言ってもらっても、俺は待たせたくないんだ。あんまり困ってる風じゃないけどさ」
神之倉はかつて、子供を恋愛対象として考えたことはないと格に言った。性愛の対象としても同様だろう。
それでも想いを受け入れてくれ、格の体の負担を慮って急ぎたがる格をセーブしてくれる。
焦ってもどうにもならないということはわかっていても、想いは止まらない。
「あいつの都合に合わせてねえで、寝込み襲うくらいしてみろよ。合い鍵持ってんだろ?」
「持ってるけど……それって迷惑じゃねえ?」
格は腰につけていたウォレットチェーンに手をやった。キーホルダーとセットで、今年の誕生日に神之倉からもらったものだ。
幅が1センチほどの革製で金属製のものほどゴツゴツしておらず、財布ではなくキーホルダーを繋いでキーストラップ代わりにして身につけている。キーホルダーにつけてあるのは自宅の鍵と神之倉の部屋の鍵だ。
「そうやっててめえの都合より相手の都合を考えちまうとこがお前らしいが」
「だってさ、士朗っていっつも忙しそうにしてるからさ…寝られるときは寝させてあげたいじゃんか」
「まったく…」
格の言い分を聞いて、神宮寺が大きく息を吐き出した。そして、両手を羽織の袖の中に差し入れるようにして腕を組み、微苦笑を浮かべる。
「お前の物わかりの良さは美点だが――長所もひっくり返しゃ短所ってことか」
「前に氷上にも似たようなこと言われたけど…結構わがまま言ってるつもりなんだけどな?」
「わがまま言やァいいってもんでもねえよ。意地張ってねえでもっと感情を晒してみな」
「感情をさらす……」
「飲み込まねえで直接ぶつけてみろ」
「……」
格は首を捻った。何を飲み込んでいるだろうかと考えてみたが、咄嗟には浮かんでこない。
神宮寺はそんな格に柔らかな眼差しを送り、テーブルの上に置いてあったメニューを取り上げて格の頭をぽんと叩いた。
「ほれ、何でも食いたいもん頼め。そんでこの曲教えてくれ」
考えすぎてよくわからなくなってきていた格は、苦笑を返してメニューを受け取った。
そして、索引から探し出された曲名に目を見開く。最近のヒットチャート常連のヒップホップ系の曲だ。
「新曲じゃん。サビはわかると思うけど、他は歌えるかわかんねえよ?」
「俺の周りにいる奴らよかましだろうが」
確かに格が見たことのある神宮寺のガード達には、若者の間で流行るような曲を歌えそうな者はいない。
どこまで気が若いのかと感心しながら、格は神宮寺の指さすその曲を入力すべくリモコンへと手を伸ばした。
神宮寺と別れて道場へ行き、型の習練の後にいつもより本数の多い組み手をこなした。終わらせて時計を見ると、午後9時を回っていた。
自転車で来ることもあるのだが、今日は電車と徒歩で来ていたため駅に向かわなければならない。道場を出た格は、少しだけ逡巡して右方向へと向かった。
右は少々治安のよろしくない風俗店が建ち並ぶ一角を抜けなくてはならず、左の方は安全ではあったがずいぶんと迂回する羽目になるので、右に行った方が駅までは近い。
道場へ向かう道すがら、とにかく逃げていないで会おうと決意していた格は、早く帰り夜食を作って神之倉を待とうと、駅までの最短ルートを選ぶことにした。
格は歩調を早めてピンク色のネオンがひしめく通りへと入った。ここを通るのは初めてではなく、急ぐ時にはよく通る。
わざとらしいほどに甘い女の声、呂律の回らない男達の声。皆おのれの欲望に忠実で、ことさら格に興味を持つ者はいなかった。格のほうも、いつもはさっさとこの一角を抜けてしまう。
だが、格は足を止めた。
そして、視界の隅に一瞬飛び込んで来た見慣れた姿を探すために視線を走らせる。
目的の人物はすぐに見つかった。きらびやかなネオン看板のライトに照らされて、一軒の店の前に立っている。
その店のホステスらしき若い女となにかを話しているのは、佐伯をはじめ数人の組員を連れた神之倉だ。
格はそばにあった大きな立て看板の影にそっと身を潜めて、4日ぶりに見る神之倉の様子を伺った。
20代半ばと思しき色白でなかなか美人のホステスが、抱き付かんばかりの近さでしきりに神之倉の腕や肩に触れている。会話の内容まではわからないが、わずかに届く声と浮かべた笑顔には営業用とは異なったとろけるような甘さが滲んでいた。
店を指差し腕を引っ張る仕草からどうやら店に寄って行ってくれと誘っているらしいが、両手をスーツのズボンのポケットに突っ込んだままの神之倉の足は半歩たりとも動く気配がない。
そのうちホステスは、見るからに豊満でドレスからこぼれそうな白い胸を押しつけるようにして神之倉の腕を取り、至近距離で何かを囁いた。
格は口を真一文字に結んだままその光景を見つめていた。胸の中に何かが生まれ、格の心をチクチクと刺激する。
わかっていた。格が見たことがないだけで、こんなことは珍しいことではないのかもしれない。
縄張りの中に繁華街があればその街に出向くことも当然あるだろうし、接待や酒宴も料亭のような密やかな場所だけでなくクラブやキャバクラということもあるだろう。
そういった場所で出会う中に、神之倉に惚れている人間がいてもおかしくはなかった。いま目の前で繰り広げられているような光景のように、積極的にアプローチしてくる者もいるかもしれない。
知らず力を込めていた拳に気付き、格はそれを慌てて解いた。
そしてその時、神之倉の視線がホステスから格へとなんの前触れもなしに移動した。
「!」
明らかに目が合って、格は体を強張らせた。
格を視界に捉えた神之倉は、その姿を目の端にとどめたまま佐伯を呼び、何事かを告げる。そして、格の方に向かって歩き出した。
激しく後ろめたい気がするのだが逃げ出すのもためらわれ、格はその場に立ち尽くして神之倉を待った。
「――どうしてこの時間にこんな場所にいるんだ?」
格の前に立った神之倉が静かに尋ねる。
「え…道場から帰るとこで――近道」
前置きもなくいきなり放たれた質問に、格は正直に答えた。
神之倉は軽く息をついて、緩く握った右の拳で格の頭を柔く小突く。
「これからはもう少し早い時間に表通りを通って帰れ」
「――はい…」
笑みのないその表情は格に否とは言わせなかった。自分でも気が引けていたのは確かなので反論も出来ない。早く帰って神之倉を待つためだという言い訳も、格はしなかった。
そこに佐伯がやってきて、格にとっては少々気まずかった沈黙を破るように声を掛けてきた。
「若頭。俺が送っていきましょうか?」
「そうだな…」
「え? え、いいよわざわざ――」
佐伯の気持ちは嬉しいが、神之倉のサポート役を運転手がわりに使うわけにはいかない。格は慌ててぶるぶると首を振った。
だが、神之倉はそうは思わなかったようだ。
「…いや、俺が行こう。お前たちは先に事務所に戻れ」
「わかりました」
細かくは問わずに佐伯が首肯する。
神之倉はそれ以上の指示を出すこともなく、促すように肩を押して格を導いた。
「えっちょっ――いいの?」
「ああ」
焦った格だったが、神之倉は平然と答えるのみだ。
そんな神之倉の背中に、つい先ほど耳にした甘ったるい女の声が投げかけられる。
「ちょ…っ!? 寄ってってくれないのー?」
「そのうちな。戻って仕事しろよ、アヤ」
神之倉は歩みを止めて左肩越しに少しだけ振り返り、ポケットに突っ込んだ左手を振ることもなくそう答えた。
「も〜! そのうちそのうちって、いつになったら来てくれるのよー」
女はさらに言い募ったが、神之倉は答えることなく格をつれてその場をあとにした。
「……いいの?」
車道に出て、停めてあった数台のセダンのうちの一台に乗り込んで数分後。
格はステアリングを握る神之倉をそっと盗み見て、先ほどと同じ言葉で尋ねた。
「何がだ?」
「仕事」
「ああ…後は事務所に戻るだけだったからな、問題ない」
前方に視線を投げたまま答えてハンドルを切る神之倉の態度も声もいつもどおりだ。4日前に中途半端な別れ方をしたことは、気にしてはいないらしい。
格は沸き上がった安堵を胸に納めたまま、続けて問い掛ける。
「――あの人は? ほっといてよかったのか?」
「あの人?」
「一緒にいた女の人。あの人、士朗のこと好きだよ」
言いながら、格は女の甘い笑みと声を思い出す。
遠目からだったが、軽い調子で話しかけながらも神之倉を見つめる目は真剣で、声からも仕事ではなく本気を感じた。格も1年半前にはあんな目で神之倉を見ていたのかもしれない。
神之倉は「知ってる」という短いひと言を返した。
「…そっか」
「3年前からあの調子だからな」
3年前ということは、格が神之倉と出会う以前からということだ。
それ自体は別段おかしなことではないのだが、なにやらもやもやとする。そして、先ほど見た光景を思い出し、胸の内でざわりと何かが蠢いた。
だが格はそれには構わずに会話を続けた。
「…3年前から知ってるにしちゃ、素っ気なかったよな」
「普通だろう?」
「店にも寄ってあげないなんてかわいそうじゃん」
言って、視線を落として膝に抱えたデイバックのファスナーを手慰みにいじりながら、格は神之倉の返答を待った。
しかし不自然な間が空き、5秒、10秒と沈黙が続く。交差点に差し掛かり車が赤信号で止まっても、神之倉から返事はない。
さすがに不審に思い顔を上げると、運転席の神之倉がじっと格を見ていた。
「――本気で言ってるのか?」
「え?」
「お前はそれでいいのか?」
ゆっくりと確認するように神之倉は尋ねた。声も眼差しも平静で感情の読めない表情だったが、少なくとも楽しんでいる顔ではない。
予想外の返答に面食らった格は、視線を泳がせて目を逸らす。
「だ…って……あんなに一生懸命士朗のこと見てたのに」
「応えるつもりがないなら、それを店に寄る理由には出来ないだろう」
「でも士朗、あの人のこと名前で呼び捨てしてたし」
「名前といってもあれは源氏名だし、だいたいホステスを名字では呼ばんだろうが」
「親しそうだったし」
「うちの縄張り内の店に3年もいりゃあ、顔を合わせることも話すこともそれなりにあるからな」
「抱き付いてたし。美人だったし。胸でかかったし」
「――妬いてるのか」
疑問でもなく、挑発でもなく、驚くでもなく、ふっと神之倉が言った。
格は弾かれたように視線を神之倉へと戻す。
いつの間にか車は動き出していて、神之倉の視線も前方へと戻っている。だが格はその横顔をひたと見据えて正直な気持ちを吐露した。
「…妬いてるよ」
客として店に寄ってもらえれば、立ち話をするよりも長い時間、堂々と神之倉のそばにいられる。そんなふうに彼女は思っていたのだろう。
神之倉のただの隣人でしかなかった頃の格も、なんとか少しでも長く話していられないかと思ったことがある。
だが、共感とは別のところで、悔しさや苛立たしさは当然あった。ただ、それは言ってはいけないことだと思い、飲み込んでいた。
右折すると、すぐそこにマンションが見えてきた。神之倉は車を地下の駐車場へと乗り入れる。そして、マンションへの出入り口にほど近い定位置に、一度も切り返すことなくバックからすんなりと停めた。
エンジンが止まり、ふいに静寂が訪れる。
「よかった」
口の端にうっすらと微笑を浮かべて神之倉が言った。
「…なにが?」
「あんまり物分かりがいいからな、妬いてもくれないんじゃないかと思ったぞ」
顔を格の方に向けた神之倉はそう言って手を伸ばし、格の側頭部をぽんぽんと柔く叩いた。
格は一瞬言葉に詰まったが、伸ばされた手を内側からすくうようにして取り、神之倉の顔を見遣る。
「妬くに決まってんだろ」
プライベートな時間以外の神之倉に対してはわがままを言わない。格はそう決めていた。
そして、古賀沢組の若頭として誰といようと何があろうとも、何も言わないつもりだった。
神宮寺の言う通り、意地になっていた部分もないとは言えない。そして、そんなわがままは格好悪いという思いも、どこかにあったのだろう。
命が蒔麻のものだというのは納得しているが、それ以外は誰にも渡したくない。誰より近くに在るのは自分でいたかった。他の誰かに触れられてほしくなかった。
これまでそれを口にせずにいられたのは、神之倉に気がある誰かと神之倉とが一緒にいる様を見たことがなかったからだ。
だが、それを見てしまった。平気な顔をしてはいられなかった。
格好悪くてもいいと思った。
「妬かないわけ、ないじゃんか…」
格は小さく呟いて、神之倉の手を握りしめる。
神之倉の口許にもう一度小さな笑みが走った。そして運転席から乗り出し、格の手を引く。
格は引き寄せられるまま神之倉の首に腕を伸ばした。
触れただけの唇はすぐに離れようとしたが、首に回した腕に力を込めて引き止め、自分から深く口付けてみた。
想いが通じた当初は果敢に挑んでいたが、いつの間にか、唇を重ねたあとは神之倉に任せるようになっていた。当然のことだが、格よりも断然手慣れていたからだ。
積極的に唇を割って滑り込んだ舌に驚いた様子も見せずに、神之倉の手のひらが格の髪をひと撫でした。挑んだ舌は壊れ物を扱うかのようにそっと掬い取られ、口腔に生じた熱さが全身に伝播していく。
「……ん…っ」
重ねた唇の隙間から格の吐息が零れた。
全身に巡った熱が腰と背骨とに集まってくるように感じて、手指が神之倉のスーツの布地を手繰り寄せる。
だが口づけはそれほど長くは続かなかった。
神之倉は唇を離し、なだめるようにもう一度だけ軽く触れると、格の体をそっと引き離した。力の抜けた体はすんなりと神之倉の手に従う。
不満や不安は湧いてこなかった。自室にいたならもう少しそばにいたいと食い下がったろうが、これから事務所に戻らねばならない神之倉を引き止める気はない。
格はおとなしく神之倉から手を離し、ドアを開けた。そして車から降りて運転席側に回り、開けられた窓から中を覗き込む。
「今夜は帰って来ねえの?」
「ああ、たぶんな。戻るときには連絡を入れる。…おやすみ」
「ん、おやすみ」
格は笑みを浮かべて答え、一歩足を引いた。それを待っていたかのようにエンジンが掛けられる。
神之倉は、格がエレベーターホールに入るのを見届けてから、セダンを発進させた。
振り返って車の走り去った先を見遣った格は、そっと自分の唇に触れる。そして降りてきたエレベーターに乗り込み階数ボタンを押して、小さく呟いた。
「……ちくしょう…」
キスの甘さの余韻が、唇に残っている気がした。
押せという氷上の言葉どおり、自分から深く口づけてみた。神之倉は逃げることなく受けて立ってくれたが、見事に返り討ちにされてしまった。
神之倉のキスは、悔しいくらいに気持ち良かった。
「次は見てろよ」
まだ自分には駆け引きが出来るほどの経験値がない。だから、押して押して押しまくろう。
あらためて今後の方針を固めてリベンジを誓い、格は神之倉からもらった鍵をポケットの中でぎゅっと握りしめた。
事務所に戻って来たはずの神之倉の姿が見当たらない。
氷上は、先に戻った佐伯をつかまえて神之倉の居場所を尋ねた。
すぐに返ってきた地下に向かったという答えに、氷上は首を傾げる。
「道場か?」
「だと思います」
これまでも地下道場にひとり籠ることはあった。だが、型をさらっているところをつい先日見たばかりだ。ここ数年はそれほど頻繁ではなかったのに、どういう心境の変化だろうか。
訝しく思った氷上は、神之倉が戻るのを待たずに地下へと降りてみた。
気配を消して道場へと近付くと、なにやら男の低い声が聞こえる。
廊下にこぼれた明かりの手前で立ち止まって覗き込むと、スーツのまま道場の中央に立った神之倉が目を閉じて何かを呟いていた。
低い声なので何を言っているのか判らない。耳を澄ましてみたが、はっきりとしたフレーズは聴き取れなかった。
だが、氷上の記憶の中の何かにこの状況が引っかかった。ずっと以前に、こういう神之倉を見たことがある気がしたのだ。
古い記憶を引きずり出してみる。
静まりかえった道場、褐色の板張りの床、ほのかな匂い、石造りの階段、山門――
断片的にこれらを思い起こし、かつて見た光景を氷上が完全に思い出した時には、声は聞こえなくなっていた。
神之倉がゆっくりと息を吐き出して宙を仰ぐ。
「――なにやってんだ?」
どことなく張り詰めていた空気が和らいだのを期に、氷上は道場に踏み込んだ。
声を掛けられて、慌てる様子もなく神之倉が振り返る。
「邪魔したか?」
「いや、もう終わった」
重ねて問い掛けた氷上に、神之倉はさらりと答えただけだった。そして逆に尋ねて寄越す。
「お前こそどうした?」
「明後日の会合の件でちょっとな」
「そうか。上で話そう」
頷いて、神之倉は氷上を促して道場を出た。
氷上はそれ以上は何も訊かず、神之倉の後を追って歩き出す。先に立って歩く背中を眺めつつ様子を窺ってみたが、これといって変わったところはない。
地上に戻り、神之倉の部屋でコーヒーを片手に腰を落ち着ける。
そうして、まずは氷上が口を開いたが、内容は会合についてではなかった。
「お前、格に欲情したのか」
疑問形のようでいて断定的な口調だった。
静かに氷上の視線を受け止めた神之倉だったが、言い逃れられないと感じたのか軽くため息をつく。
だが、その口から出てきたのは肯定の言葉ではなかった。
「いいや」
「…本当に?」
「ああ」
「だけどお前、格の前で経を唱えたろ?」
格から話を聞かされた時は何なのか判らなかったが、数日前に地下道場で型をさらっていた姿と先ほどの道場での様子にピンときた。
氷上の考え通りなら、格が聞いたのは般若心経の冒頭部分だ。
神之倉の剣の師匠は寺の住職でもあって、かつて神之倉は師匠が住持する禅寺に居候していたことがある。
掃除などは手伝っていても僧侶の修行をしていたわけではなかったが、般若心経だけは完璧に覚えていた。精神統一法のひとつとして、道場に通い始めた頃に教わったのだという。
神之倉は特定の信仰は持っていない。氷上と神之倉が知り合った頃はまだ存命だった老師匠も、神之倉を単なる剣の弟子として扱っていたので、宗教的な意味合いはなかったのだろう。
だが、“剣禅一致”という。ならば全く関係ないとは言えず、精神統一には確かに有効的なのかもしれないと氷上も思う。
ただ、神之倉がそれを口にする時の状況は、氷上が知るかぎり限られていた。
心に乱れがある時か、迷いがある時だ。
乱れ、迷い、揺れる。
格を前にしてそれらを感じたのだとしたら、いままで神之倉が格に対して抱かなかったものを抱いたからだと氷上は思ったのだ。
一個の人間として神之倉は格を認めている。氷上が格のことを神之倉の“イロ”だと言っても否定しないように、そういう存在としても受け入れてもいる。
だが、性的なものはまた別の話だ。元々神之倉には、子供に性的興奮を感じる性質はない。
格は精神年齢は驚くほど高いが、体はまだ少年だ。神之倉もいまはまだ情欲を伴う接触に固執はせず、格の負担を慮って“高校に入学したら”という条件を出したらしい。
格自身が今すぐでもいいと言っているのだから手を出してみればいいのだと氷上は思う。人間は勢いに流されるように、そしてある程度のことには対応可能なように出来ている。最初は格に多少の負担をかけるだろうが苦痛だけでなし、そのうち慣れもするだろう。
「…抱きたいとまでは思わなかったが……」
スーツの内ポケットから煙草を取り出しながら神之倉が言った。
「じゃあどう思ったんだ」
「見つめてくる目があんまり必死で、つい抱きしめたくなった」
「――お前、あいつを子供扱いしすぎてないか? 歳よりずっと解ってるぞ」
「知ってるさ。だからだ」
答えた神之倉は、取り出した煙草を銜えずに指先でくるりと回した。そして、呆れたように神之倉を見る氷上の目を見返した。
「解ってるから、誤魔化しはきかないだろう?」
「どういう意味だ」
「下手な言い訳で言いくるめられるほど子供じゃないってことだ」
それは確かだが、何をどう誤魔化したいのかがよくわからない。
そんな氷上の疑問の眼差しを受けて、神之倉は口の端に苦笑を浮かべた。
「風呂上がりで髪を濡らしたまま石鹸の匂いをさせて、潤んだ目で赤い顔して――そういう状態で衝動的に抱き寄せたら、あいつもその気になるだろうが」
「なるだろうな」
「色欲なんてのは1歩踏み込むと気持ちだけでは制御しきれないもんだからな」
「お前が言うと説得力はないが、たしかにそうだな。性欲を満足させる方法を覚えちまうとブレーキの効きが鈍る」
覚えたてのセックスに嵌まりやすいのは、もたらすものが快感だということと、体がそれを求めるからだ。
行為に慣れてしまえばのめり込むのは早く、溺れるのも容易い。
「この先ずっと抱く気がないわけじゃない。だが、苦痛は出来るだけ減らしてやりたいからな、急ぐ気はないんだ。ただでさえろくに構ってやれない今の状況で衝動のまま手を出して、あいつにこれ以上我慢させたくない」
2年以上の月日をかけてほぼ先代の頃と同レベルまで押し上げ、現在組は安定している。
だが、先代時よりも1段階組織力を上げ、もう一歩組織としての幅も広げるという方針がこの春の幹部会で決定したため、神之倉は連日忙しく動き回っていた。
他の誰より頑強な神之倉が疲労で深く眠り込むほど、そして顔に疲れを滲ませるほどの多忙さだ。
たしかに、格に心身ともに我慢を強いることになるかもしれない。
「それに今のあいつには、学校生活やら友達付き合いやらやることがたくさんあるからな、俺を生活の中心にするべきじゃない」
「…つまり簡単にまとめると、じっくり開発して心置きなくやりまくりたいから今はおあずけってことか?」
「人を性豪スケベジジイのように言うな。それから端折りすぎだ」
あちこち割愛し強引かつ誇張した意訳なのは確かだが、氷上は訂正はしなかった。
無意識のようだが、すでに格を溺れさせる自信があるあたりがある意味では神之倉らしい。
それでいて自信過剰だと思えないのは、高く強固な壁に懸命に挑みかかってそれを越えて来た格の一途さを見ているからだろうか。
「だけどお前、型さらったり精神統一したりしてるってことは、衝動に流されそうにはなったってことか」
わざわざ話を戻した氷上に、神之倉は苦く笑っただけで答えなかった。
今はまだ衝動より自制が勝っているようだが、格にチャンスがないわけではないようだ。
「折れてやる気はないのか?」
「いまはまだ、な…」
「あんまりのんびり構えてると横からかっさらわれるぜ?」
「――させないさ」
静かだが余裕と確信を持って返された答えに感嘆と降参の入り交じった苦笑を浮かべて、氷上はあらためて煙草を銜えた神之倉に向かってジッポーの火を差し出した。
朝から降り続いていた雨は昼前に止み、空が明るくなって来ていた。
格は武道場の裏でポケットから携帯電話を取り出し、着信履歴から発信先を選んだ。
昼休みにカバンを開けたら、このところすれ違いばかりでなかなか会えなかった蒔麻からの着信があり、学校が終わったら電話をくれるようメッセージも残っていたので、午後の授業が始まる前にこっそりと電話を掛けに来たのだ。
携帯電話の持ち込みは容認されていても緊急時以外の使用は禁止されているので、見つからないに越したことはない。
無事に繋がり電話に出た蒔麻は、メッセージと同じく放課後で良かったのにと言ったが、声が聴きたかったからと返した格に嬉しげに笑って用件を告げた。
『氷上から伝言よ。今日は戻れないけど、明日は昼過ぎから夕方まで空いてるって』
いつもの氷上なら、わざわざ蒔麻に伝言を頼むようなまねはしない。だが、格が神之倉から聞いたところによると重要な会合に参加しているらしいので、電話をする暇もメールを打つ時間もないのだろう。
蒔麻には定時連絡を入れるついでに頼むこともできるが、頼んだのが連れているだろう組員ではなく蒔麻だったのは、しばらくろくに話もしていない格と話させてやろうという気遣いがあったのかもしれない。
初めての中間テストがあったり学校行事があったりで、10日に一度くらいしか組事務所に顔を出せなかった格とタイミングが合わず、蒔麻の顔を最後に見たのは約ひと月前、声を聞いたのは10日ぶりだ。
「そんじゃあ、氷上から連絡あったら、明日休みだから1時頃に事務所に行くって伝えてくれる? 一応携帯宛てにメールも打っとくけど」
『わかったわ。明日は私も事務所にいるから、久し振りに会えそうね』
「ほんと? じゃあ前に蒔麻さんが好きだって言ってたケーキ買ってくよ」
ふと思い出して格は言った。中学校に入学して少し経った頃、古賀沢組の事務所で食べさせてもらったものだ。
とある洋菓子店で先着150個限定で販売されているもので、早ければ開店30分後には売り切れてしまうという代物だ。
『気を使わなくてもいいのよ?』
「なかなか買いに行けないって言ってたじゃん? まかせて」
『そう? …じゃあお願いしちゃおうかな。夜は格くんの好きなもの食べに行こうね』
「うん、サンキュ。…じゃあ明日」
『ええ、明日ね』
申し出にありがたく応じ、蒔麻の返答を待って格は電話を切った。
蒔麻は強い女だが、それゆえに体力的にも精神的にも少し無理をしてしまうことがある。だが声を聞く限りでは元気そうなのでほっと胸を撫で下ろし、格は携帯電話をポケットにしまって武道場の裏から出た。
まだ昼休みは10分ほど残っているので、校庭にも中庭にもかなりの生徒がいる。
そして、校庭に視線を送りながら体育館前に差し掛かったところで、走ってきた女子生徒と接触した。
躱しきれずに肩が打ち当たり、振り返ってふと目が合った瞬間、
「ごめんなさい!」
女子生徒が大きな声で謝罪をした。
「こっちこそごめん。大丈夫?」
「うん……あの、ごめんね」
「なんともないから」
「それだけじゃなくって――」
格は、謝り続けて口ごもる女子生徒に首を捻った。そして、彼女と一度話したことがあるのを思い出す。今日と同じ、この場所だった。
「…あの、前にハンドタオル拾ってもらったの覚えてる?」
怖ず怖ずと尋ねた彼女に格は頷いた。
「この場所だったよな」
「うん、そう。あの時は――どうもありがとう。それから…ごめんなさい」
あらためてこんな風に礼を述べられるほど大層なことをしてはいないし、謝られるような覚えもまるでない。
何のことか訊いてみようかと口を開きかけたが思い直し、不安そうに顔色を窺う彼女に向かって格は笑って見せた。
「気にするようなことは何もねえよ。でも、気持ちはもらっとく」
その言葉に彼女の表情がふっと和らいで笑みが浮かんだ。
そして、彼女はぺこりと頭を下げて体育館へ向かうために踵を巡らせ、軽やかに走り去った。
格は雲の切れ間から陽が射して来た空を見上げて背伸びをすると、校舎へ向かってゆっくりと歩き出した。
−終−
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