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【第2部】Vol.1 アンバランス (1)
前日までの雨を葉の上にとどめていた木々から水滴が落ち、久々に顔を出した太陽の光にきらめいている。
数日ぶりの梅雨の晴れ間のもと、ここぞとばかりに表に出て練習をしている運動部員の掛け声が校庭に響いていた。
練習場所が元より室内で雨天でも影響のない部は、いつもどおりに活動をしていた。体育館ではバスケットボール部やバレーボール部が、体育館に続く渡り廊下の奥の武道場では、柔道部や剣道部が部活動に精を出している。
明かり取りの天窓から差し込む陽光が四角いスペースを形作っている畳の上でストレッチをしながら、格は目の前で繰り広げられる上級生の乱取りを見つめていた。
まだ入部して2ヶ月と少しの格たち1年生は、基礎と体力作りが主な練習内容なので、乱取りとなると見ていることが多い。
走ることも球技も好きなので他の選択肢もあったのだが、格は端から武道系の部に入るつもりでいた。
剣道にも興味を引かれつつ最終的に柔道を選んだのは、やはり段位が欲しいのと、部活動の時間がこれまで通ってきた空手道場の稽古に差し支えなさそうだったからだ。
寝技の習練のためという非常に邪な理由もあったが、それは神之倉には内緒である。
「はい、終了ー。次は1年生、乱取りやるぞ」
合図がわりの笛を吹き鳴らした顧問が指示を出した。
やはり基礎より実戦で技を使えることの方が嬉しい1年生たちはいそいそと集まって来る。
今年入部した1年生は12人。近年では多い方らしく、経験者も格を入れて5人いた。
「今日こそ投げてやるからな、榎本」
まず格と組んだ少年が笑みを浮かべて宣言した。格も不敵に笑い返して身構える。
「そっちこそちゃんと受け身取れよ、川本」
経験者である川本は小柄だが、身軽でスピードがあり、組み手争いも上手いので格はまだ投げたことがない。川本も、反射神経が良く上背のある格を投げ切れないでいた。
「始め!」
鋭く短い笛の音により、気合いとともに武道場内の空気が一斉に動いた。
「次は絶対投げてやるかんなー」
乱取りのあと技の練習を経て休憩に入り、共に屋外の水飲み場にやってきて川本が言った。
それは格のセリフでもある。結局今日も、川本を掴まえ切れなかった。
「ったくよー。この足がクセモンだ、この足が」
「川本こそ、切っても切っても簡単に引き手取りやがって」
脚に軽く膝蹴りを放ってくる川本に、格も腕に肘打ちを放って対抗した。
投げようとしても、格は強い足腰とバランス感覚の良さで、掛けられた足を外したり俯せに落ちたりしてどうにか凌いでしまう。
川本も、襟や袖を取ってきた手を格が力ずくで切り離しても、すぐに巧みに掴み直して抜群のスピードで懐に飛び込んでくる。
まだまだ技は荒削りだが、1年生部員の中では2人が頭ひとつ抜けていた。
5分間の休憩なのであまりのんびりしているわけにはいかない。格は、川本や他の同級生たちと共に武道場へ引き返した。
体育館の前を通り過ぎ、武道場の方へと直進する。
数歩進んだところで視界の隅で何かが落ちるのに気付き、格は足を止めた。
振り返ると、体育館からやってきたらしき数人の女子生徒が校舎に向かって歩いている。ジャージのラインの色からして1年生らしい。その手前に花柄のハンドタオルが落ちていた。
「ちょっと待って」
格は絶え間なくお喋りをしながら歩き去ろうとする彼女たちを呼び止め、ハンドタオルを拾いあげた。
「これ、落としたぞ」
手にしたタオルを掲げて見せると、女子生徒たちのうちの1人がはっとする。
格はタオルに付いた砂埃を軽くはたくと、簡単に四つに畳んで差し出した。
「はい」
「あ、どーも…」
ためらいがちに近寄って来た女子生徒は、頭を下げつつおずおずとそれを受け取って、ぱっと踵を返すと逃げるようにして連れの集団の中に駆け戻った。
そして、集団の中の1人が笑顔で格に問い掛ける。
「榎本、まだ部活?」
「もうちょいな。中村はもうあがり?」
「うん。頑張ってねー」
「サンキュ」
明るく手を振る少女に軽く右手を上げて応えて、格は武道場へと続く通路の先で待つ川本たちの方へと小走りに戻っていった。
その姿が武道場の中に消えるまで待って、格が拾ったタオルを受け取った1人がほっと息をつく。
「今の2組の榎本くんでしょ? 中村ってばよく平気で話せるね〜怖くない?」
「え? 全然」
彼女の問いに、格が中村と呼んだ少女はあっさりと返した。その答えに、女子生徒たちのうちの数人が不安げな視線を交わし合う。
「でもさ、3年の怖い人とケンカ騒ぎ起こしたって――」
「そうそう、親も呼び出されたって」
「背ぇ高いしけっこう顔イイけどさ、コワイのはヤダよねー」
「あれ? 誰かがその3年生にぶたれたのが原因だって聞いたよ」
「あたしも聞いた。吹っ掛けてきたのは3年だって」
「そうなの? 私は3年生が先に殴られたって聞いたよ?」
女子生徒たちの中で反応が真っ二つに割れ、口にする情報にも差異が出た。
声をひそめた彼女たちの言う喧嘩騒ぎは、たしかに5月の中頃に実際に起こったことだった。だが現場を目撃した者が少なく大事にならなかったために、かえって情報が錯綜して広まっている。
ただ、中村をはじめ、あまりそれに左右されていない者もいた。
「ウワサばっかじゃん。 あたしはその現場見てないけど、意味なくケンカとかしないヤツだよ」
軽く息をついて中村が言い放つ。
「中村って榎本くんと同じ小学校だっけ?」
「うん。5年と6年のとき同じクラスだった」
格の出身校の生徒の約3分の1がこの中学校に進学するので、顔見知りはけっこう多い。
中村はその場の皆に向かってはっきりと断言した。
「怖くなんかないよ。明るいヤツだし、掃除とか当番とか逃げたりしないし、女子と一緒にいるよりは男子とつるんでる方が全然多いけど、女子にやさしいしね」
「やさしいって?」
「重いものとか運ぶときに代わってくれたりするよ。男子ってよく女子をからかったりするけど、榎本がそういうことしたの見たことないし」
「へえ〜意外。空手とかやってるって聞いたからコワイ人だと思ってた」
単純かつ短絡的だが、格闘技をやっているという情報だけでそういうイメージを持たれることは間々ある。今回は喧嘩沙汰がそれを後押ししてしまっていた。
実際に本人を知っていれば、後から耳にする情報よりは本人の見た目や接したときのイメージの方が強く、伝聞は本人を離れた単なる噂話として捉えられる。
もともと、おおらかで朗らかな格は人好きのするタイプだ。喧嘩沙汰のあった時点でクラスメイトの大半とはすでに打ち解け、柔道部の部員とも学年問わず親しくなりつつあった。
だから彼らは、個人差はあれ噂に振り回されることはほとんどなく格と接している。
「……そういえばさっき、ただのハンドタオルなのにちゃんとして渡してくれた」
タオルを受け取った女子生徒が、手に持ったタオルを見下ろして言った。
「だから言ってんじゃん、怖くなんかないって」
「悪いことしたかなあ…。あたし、ちょっと態度悪かったよね?」
「大丈夫だと思うよ? でも気になるなら、今度会った時にでも言えばいいよ」
中村は明るく言って、校舎へ向かって歩き出した。
「熱心だなあ、榎本。部活の方は大丈夫なのか?」
通っている空手道場での稽古が一段落ついたところで、道場の師範である清水が話しかけてきた。まだ40才手前の男だが、教え方が丁寧でなかなか巧く、道場は繁盛している。
膝に手を当てて息を整えていた格は、一度清水の髭面を見上げてから再度俯くと、大きく息を吐いて上体を起こした。
今日の格は、部活の後に学校から直接道場へと稽古をしに来ている。
「部の稽古はそんなに長時間じゃないんで平気です。日曜は部活ないし」
「オーバーユースには気をつけろよ」
「ハイ」
それなりに名のある実戦空手の流派で稽古も決して易しいものではないのだが、学校で柔道部に入ったという格を、清水はあっさりと許した。
清水自身がおおらかな性格をしているせいもあるが、どちらもやってみたいと正直に告げた格の真剣さを汲んだ形だった。
それでも無条件というわけではない。稽古も直接打撃(フルコンタクト)であるため気を抜いていると危険なので、稽古に身が入らないようならどちらかをやめるよう言うつもりだった。だが、今のところそれはない。
「昇級審査はどうする? 受けるか?」
「受けます」
「即答だなー」
流派によって異なるが、ここでは昇級・昇段審査が年に2回行われる。飛び級も可能だが、入門して3ヶ月以上経過していないと審査が受けられないため、格が審査を受けるのは今回が初めてだった。
昇級審査には入門からの期間や基礎の習得も加味されるため、黒帯を手に入れるまで数年は掛かってしまう。
帯の色だけが強さではないとわかってはいるが、やはり一日も早く黒い帯を締めてみたかった。
「じゃあ審査用の型をさらって、しばらく組み手の稽古を増やすか」
黒帯への憧れは入門したほとんどの者が持つ。清水は笑って格の肩を叩いた。
そんな清水を格がじっと見上げる。
「ん? どうした?」
「稽古をしてるだけで精神鍛練になりますか?」
「そりゃ稽古から心技体揃ってることが基本だしな。心だけ置き去りじゃ強いとは言えないだろうし。どうした、急に」
「もっともっと鍛えなきゃなって思って」
「やる気満々だな、榎本」
清水は意欲に満ち溢れている格の言葉に嬉しげに笑った。
だが、格の思いは単に上達するためにというだけではなく、もう少し切実だった。
突然冷静でいられなくなり、後先考えずに暴走してしまうことがある。そんな自分を変えたいのだ。
この春、蒔麻と共に攫われ監禁された時に、生まれて初めて何がなんだかわからなくなるほど激昂した。そして、拳銃の引き金を引いた。
神之倉が止めてくれたが、あのまま暴走していたらと思うとぞっとする。
あんなケースはそうはないだろう。神之倉のことでなかったら、あれほど腹は立たなかったかもしれない。誰しも、大切なものを踏みにじられたら我を忘れるほど怒ることだってある。
神之倉も、わかっていると言ってくれた。
しかしそう思ってみても、どうしても自分の弱さを許せなかった。腕っ節だけでなく、心も強い男になりたかった。
そうして、気持ちが高ぶってもどこか一部分だけでも冷静でいなければと思っていたら、またやってしまった。
5月にあった上級生との喧嘩沙汰がそれだ。
数人の友人たちといたところ、そのうちの1人がふざけていた拍子に通り掛かった上級生にぶつかった。さして珍しい状況ではない。
ただ、相手が悪かった。ぐれて凶暴性を振りまいている人間はどこにでもいるものだが、格の友人がぶつかったのもそういう相手で、すぐに謝った友人に対して口より先に手を出して来た。
そして、続けて一方的に暴言を放った相手がさらに暴力を振るおうとし、それに制止の言葉をかけた別の友人にまで手を上げられた瞬間、格は一歩踏み出していた。
まず距離を取ろうと加減をして放ったつもりの掌打が思いのほか強く相手の胸に入り、それに激怒して殴りかかってきたのを躱そうとした拳が、運良くというか悪くというべきか、裏拳の要領で相手の下顎にヒットしてしまった。
あまりにタイミング良く急所に入ったため、相手は大きくよろめいてその場に倒れ、駆けつけてきた教師にそれを目撃されてしまった。
格にしてみれば、喧嘩というほど大層なものではなかった。カッとなって思わず力が入ってしまったのは確かだが、胸を突いたのも顎に拳が当たったのも、相手を殴ろうと思ってのことではない。
しかし、事は簡単には済まなかった。
相手の日常の素行が悪かったので、絡まれたのは格たちだという主張は通ったが、殴るつもりはなかったという格の言い分は退けられた。
気を失うまではいかなかったが相手が倒れてしまったことと、格が空手道場へ通っているということが大きかったようだ。喧嘩に空手技を使ったと受け取られたらしい。
相手が経験者や有段者なら別だが、同じ世代の相手なら喧嘩に空手技を使う気は格にはない。だが、それを口にしてすんなり不問にしてもらうには、入学して1ヶ月という時間は少々短かった。
担任教師はかばってくれたが押しが足らず、生活指導主任という肩書きを持つ中年教師の要請で母親の東子まで呼び出される羽目になった。
単に注意を受けただけではあったが、喧嘩沙汰で親が呼び出されるという結果が逆に尾鰭のつく噂が広まる原因になったといえる。
「格は、恥ずかしいと思うことはしてないんでしょう?」
喧嘩騒ぎの翌日、呼び出しに応じた東子と共に学校から帰る道すがら、呼び出されるような真似をしたことを謝った格に向かって東子が言った。
「してないよ」
卑怯なことをしたつもりはないし、踏み出した一歩を悔いてもいない。友達が理不尽に殴られるのを黙って見ているような人間にはなりたくなかった。
「それならいいわ」
東子はにっこりと笑って格を抱きしめた。往来でのそれに道行く人々の視線がちらちらと向けられたが、東子は気にもしない。
「あたしは格を信じてるし、格が空手をやってるのはケンカをするためじゃないって解ってるもの。頭から決めつけてるわからず屋のオヤジなんてクソ食らえよ」
あえて粗野な言い方をした東子を、格は笑って抱き返した。
見た目も内面も、実際に年齢も若い東子だが、格にとっては大切な母親だ。誰よりも格を信じ、慈しんでくれている。
だからこそ格は、東子が呼び出されるような事態になってしまったことに憤り、それ以上に気落ちした。
東子がどうやって生きてきたかを知らない人間が、見た目や年齢だけで判断を下して正当な評価をしないことは過去にも経験していたが、今回も格のしたことは東子の若さや躾にも原因があるというようなことを言われたのだ。
いくら自分に悔いるところがなくても、そんな理不尽な物言いをされた原因が自分なら落ち込まざるを得ない。
そして、神之倉と氷上が相次いでそれに気付いた。神之倉に隠し事は出来ず、察しのよすぎる氷上にはすぐに察知されてしまう。
神之倉は、事のあらましを聞くと、その大きな手で格の頭や頬を撫でてくれた。そして格を両腕に収め、
「そうか」
とだけ言った。
それだけで充分だった。
饒舌に慰めの言葉をかけてもらわなくても、やるせなさや口惜しさを受け止めてくれたことが嬉しかった。触れた手のあたたかさや抱き留めてくれる腕の強さで、重く沈んだ気持ちが和らいだ。
そして、東子には心配をかけたくないという思いが働き、神之倉には告げずとも全て察してくれるだろうという確信があって詳細までは語らずにいたことを、氷上は時間を割いて聞いてくれた。
わかってくれる人がいればそれで良いと思っていたが、飲み込んでいたことを言葉として吐き出すと、冷静に振り返られるようにもなった。
「事がでかくならないうちに手を打ったつもりなんだろ、その教師は」
格の話を聞き終わり、紫煙をゆっくりと吐き出して氷上が言った。
「そ…うなのかな?」
「生活指導主任ってのも大変だな、責任ある立場で」
皮肉を発した氷上の唇に、冷ややかな笑みが浮かぶ。
「何でもかんでも暴力って部類にひと括りにする奴はどこにでもいるが、過剰反応にすぎるな。取っ組み合いして血みどろの喧嘩をしたわけじゃなし、相手はともかくお前には今後気をつけろと注意してやりゃ済むことだ。親を呼び出すような事じゃない。…俺が言っても説得力はないが」
格は首を横に振って氷上の言葉の終わりの部分を否定した。
極道とは血と暴力の世界だと言い切り、複数の武道を格に手ほどきすることができる氷上には、喧嘩と暴力に線を引く事ができるだろう。
「すごく荒れてる学校も多いみたいだから、そんな風にならないように警戒してピリピリしてんのかな」
話すことでこの件を客観視できるようになった格が言った。
程度の差はあれ、荒れている学校は多い。格の中学校はそれほどでもないが、やはり素行の悪い者は複数いる。
生活指導主任という立場の教師として、ひどく荒れることを避けたいのだろう。後手に回って手遅れにならないよう、荒れる原因の芽は早めに摘んでおきたいということか。
だが、それが判ったところで納得できない部分が多い。そして、こういう結果を引き起こした自分に対するもどかしさは消えることがない。
沈思している格の心中を察したか、氷上の手が格の頭頂部をぽんぽんと2、3度軽く叩いた。
「お前はちゃんと言うべき事は言ったんだろ? 顔上げて堂々としてな」
「――…氷上」
「ん?」
「俺、やばいかも…。カッとすると加減がきかなくなるんだ」
「誰だってそうだろうが」
「でも…」
春先のあの日、河岸の倉庫の地下で何があったのか氷上は聞いているのだろうか。
あの後、神之倉が氷上や蒔麻に起こったことの全てを話したのかどうか、格は知らない。
氷上は短くなった煙草の火を灰皿でもみ消して、濃灰色の瞳でじっと格を見つめた。
「感情に左右されるモノがあるってことをわかってるならいいだろうさ。お前の年で完璧に自分をコントロール出来てたら逆に問題あるぞ」
「そうかな?」
「ああ、そうだ」
氷上は断言すると、格の額を指先で強く弾いた。
そして新たな煙草を銜えて火をつけ、渋面で額を押さえている格の頭髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。
「理想と目標が高いのはいいが、急ぎすぎるなよ。技はともかく精神的なもんはそう簡単にはいかないもんだ」
「…うん」
何ごとにも揺れない強さが欲しい。1日も早く強くなりたい。
日々を過ごしながら、その事だけは常に頭の片隅にあった。
だが、急ぐなという氷上の言葉も理解できる。
格は素直に頷いて、まずはしっかりと稽古を積もうとあらためて心に誓った。
積み重ねたその先に何もないということはないはずだった。
「うわ。ここも青くなってるよ」
道場から帰宅して風呂に入った後、濡れた髪もそのままにトランクス1枚で体のあちこちを点検しながら格は小さく呟いた。
もはや柔道部の練習中に負ったものか、空手道場で作った痣なのか判別がつかない。
背中側は洗面所の鏡で見ただけなのでよくわからないが、痛みは感じないので無事なのだろう。青々とした痣になっているのは、右の上腕、右膝のそば、左足の踝の上、そして左腰骨上の4箇所だ。
「今日の組み手、ガンガンぶち当たったからなあ」
恐る恐る腰骨の上の青痣を指先で押してみる。
柔道部では川本と手加減なしにぶつかり、怪我だけはするなよと顧問に窘められた。
今のところ川本のほうが優勢だが、どうしたら攻略出来るのかを考えるとわくわくする。川本も格を完璧に投げてやろうと躍起になっているのでついヒートアップしてしまうのだ。
そして空手道場のほうでは、防具なしの組み手を何本か行った。相手をしてくれた清水は、格のレベルに合せて手加減をしてくれているものの、寸止めで済ませてはくれない。当然、ブロックし損なうと痣も出来た。
冷蔵庫から取り出した1リットルパックの牛乳をそのまま口に運びながら、格はリビングへと移動した。棚の中から救急箱を引き出し、ソファまで運んで中を漁る。
「……ん?」
必要な物を取り出して並べ、湿布の袋を手にした格が訝しげに首を傾げた。
軽く、厚みがない。
開けてみると、案の定中には使い掛けのものが1枚入っているだけだった。
買い置きはなかったかとさらに探してみたが見当たらない。
ひどい打撲ではないが、放っておくより手当てをしておいた方がいいだろう。
格は少し考えて、近くの薬局まで行くことに決めて立ち上がった。
がしがしと大雑把に頭を拭きながら、服を着るために自室へと向かう。ハーフ丈のカーゴパンツを履きタンクトップの上にフードのついたパーカー羽織ると、髪を乾かしに取って返した。
だが、ダイニングテーブルの脇で格はふと足を止めた。その上に置いておいたものが目に入ったからだ。
鈍銀色に光るそれは、自宅の鍵と神之倉の部屋の鍵だった。
キーホルダーを手に取り、しばし考える。
もしかしたら、神之倉の部屋にあるかもしれない。
時計を仰ぎ見ると午後9時を少し回っていた。夜の仕事や自営業の住人が多いマンションで、住宅街でも繁華街でもないので人通りがあまりなく、なるべく夜間にうろつくなと神之倉からも東子からも言われている。自転車で薬局に行くくらいどうということはないとは思うが、2人に余計な心配をかけたくはない。
格は鍵だけを手に、濡れ髪のまま部屋を出た。
すぐ隣りの部屋のドアを、もらった合鍵で開ける。
鍵をもらって1年と少しが過ぎたが、鍵を鍵穴に差し込む時のちょっとしたドキドキ感が1年経ってもいまだ嬉しい。
このところまた忙しくしている神之倉はまだ帰宅していないだろうが、最近の格は断りを入れずに部屋に入るようになっていた。合鍵を持っているのだから勝手に入っていいという神之倉の言葉に従ってのことだ。
もっともそれも、探し物を頼まれたり、神之倉の帰宅予定を聞いていてその前に部屋に入って待っているといった時くらいで、勝手に部屋を使って荒らしたり散らかしたりしたことはない。湿布を探すくらいなら問題ないだろう。
格は部屋に上がり込み、薬の類いが置いてあるだろうリビングに向かった。
広さは格のところとほとんど変わらないが、部屋の間取りが少し違う。神之倉の部屋の方が部屋数が少ないため、リビングと寝室が大きめになっていた。
その広いリビングにやってきた格は、少ない家具のひとつである書棚を見上げた。サイドボードの上にはなかった記憶があるので、救急箱があるとするなら書棚の上だ。
そして見当をつけたそこにそれらしき箱を発見したと同時に、視界の隅にあるソファの上の物体に気付いた。
「…し――」
振り返った格は、そのものの名を口にしかけて慌てて口を手のひらで塞いだ。
そして、物音を立てないようにそっと近付いてみる。
それは、生成り色の革のソファに大柄の体を窮屈そうに横たえ、肘掛けに両足を乗せて腕を組んでいた。
閉じた瞼。
ゆるやかな息遣い。
顔には僅かに疲れが浮いて見え、窮屈だからなのか何か鬱積したものがあるのか判らなかったが、眉間には縦じわが刻まれている。
格の気配に気付くことなく眠っているのは、この部屋の主である神之倉士朗だった。
知り合って1年9ヶ月、伝えた想いを受け止めてもらってから1年3ヶ月。格は、これまで神之倉の寝顔を見たことがない。
そもそも、昼型の格とどちらかというと夜型寄りの神之倉とは生活リズムが異なる。
平日・休日問わず、昼間神之倉が自宅にいることは滅多にない。格が学校に行く前なら少しだが会える時間があるのだが、その時間は東子と話をすると格は決めている。格が学校から帰宅するのが遅ければ、平日に必ず東子と顔を合わせることができるのが朝しかないからだ。
また7時前後は、深更に眠りにつく神之倉は寝ているだろう時間なので、ほんの少し顔を出すだけだとしても格にはためらいがあった。常に忙しそうな神之倉の睡眠を妨げたくないのだ。
だから格は、神之倉が朝に帰宅した時以外、登校前に部屋に行ったことはまだない。
そして夜帰宅した神之倉を訪ねても、格がうとうとしたことはあっても神之倉が格の前で眠そうな顔をしているのは見たことがなかった。
思いがけず見ることが叶った神之倉の寝顔を、格はじっと見つめた。
あまり気持ち良さそうな表情とはいえないのでいっそ起こした方がいいかと思ったが、足音を忍ばせもせずに入ってきた格の気配にも気付かないほど深い眠りを邪魔したくない。
格はソファの横に静かに膝をつき、少し陰りのある顔に視線を滑らせた。
顎のライン、耳朶、首筋――帰宅してくつろぐ時でもボタンを2つほどしか外さない神之倉にしては珍しく、大きく開かれたワイシャツの襟元から鎖骨の窪みとその下の厚い胸が覗いている。
組んだ腕。上腕を掴むようにしている指先。骨張っていて大きな、格の好きなその手。
スーツのよく似合う浮ついたところのない腰を経てその先を見ると、伸ばした脚の向こうに裸足の爪先が見える。
ドキドキした。
鍵を開ける時のドキドキよりも数段鼓動の音が大きく聞こえる。
初めて目にする寝姿だからなのか、見ているうちに何やら気分が高揚してきた。
脈拍数が上がる。体が熱い。
抱きしめられると嬉しく、触れられると心地よく、キスは快い。そこから先の行為を望んでいて、何をするのかも知っていて、これまで幾度となく自分からせまってきた。
だが、そのどれも今ほどの高揚はなかった。寝姿ひとつでどうしてこんなに鼓動が早いのか。
格は身を乗り出すようにして神之倉の顔を覗き込んだ。
触りたい。触ってほしい。
キスしたい。口づけて、その体に痕跡を残したい。
そう思った瞬間、思わず喉が鳴った。
思いのほか大きく聞こえたその音に、急激に恥ずかしさに襲われて、格の顔にさっと朱が走る。
刹那、神之倉の目がふっと開いた。
「!」
格は息を呑み、その場に固まった。神之倉から目が離せない。
「―――…じざ……――た……かいく…――」
数秒の間の後、神之倉の唇が動いて小さく何かを口にした。しかし格には、それがなんだかわからない。
神之倉がゆっくりと体を起こした。それに圧されるようにして体を引き、膝立ちしていた格がぺったりと床に座り込む。
「あ、の――士朗…?」
「…ああ…おかえり、格」
ばくばくと跳ねる心臓の上あたりを押さえて様子を窺うように声をかけた格に、神之倉はいつものように静かに言った。
「お前、水か何か垂らさなかったか?」
「え?」
「何か落ちてきたような…」
そう言って、右手の甲で左頬を拭う。
まさか涎でも垂らしたかと、格は慌てて口許を探った。
そんな格の額へ神之倉の手が伸びる。
「なるほど、これか…」
指先で前髪に触れた神之倉は呟き、格の濡れた髪から滴り落ちそうになっていた雫を掬い取った。
どうやら、上から覗き込んでいたので水滴が髪を伝って神之倉の顔へと落ちたらしい。
「どうした?」
「え?」
「顔が赤い」
言うなり、神之倉は両手のひらで格の頬を包んだ。そして、片手を首へと滑らして体温と脈拍を確かめる。
「少し熱いな…?」
「そ、そう? どこも何ともねえよ?」
「それならいいが…。ともかくちゃんと髪を乾かせ。風邪をひくぞ」
神之倉は手を離して腰を上げた。そして、タオルを取ってくると言ってバスルームの方へ歩き出す。
格はすっくと立ち上がり、神之倉を呼び止めた。
「あの、俺、ウチで乾かすから大丈夫」
「そうか…?」
「うん。士朗すごく疲れてるみたいだからもう帰るよ。ゆっくり寝てて。あ、湿布あったらもらえる?」
「冷湿布でいいのか?」
「うん」
神之倉は不思議そうに格を見遣ったが深く問うことはせず、先刻格が見つけた書棚の上の箱をおろし、その中から取り出した湿布の袋を格へと手渡した。
「ありがと。…おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
神之倉の返事を聞き届けると、格はそそくさと踵を返した。
慌てずに、なるべくいつものように…と心で唱えながら玄関ドアを閉め、鍵をかけ、隣の自分の家へと戻る。そしてリビングまで辿り着くと、戸惑いを隠せないまましゃがみ込んだ。
自分は今どんな顔をしているのだろう?
もらってきた湿布の袋を床に落とし、明らかに熱い顔を覆ってぎゅっと目を瞑った。
そして、神之倉の部屋を出てから呼吸をするのを忘れていたかのように詰めていた息を、格は大きく吐き出した。
格の背中を見送った神之倉はしばらくその場に立っていたが、やがて何かを考えるかのように視線を落とし、横になっていたソファへと戻った。
腰をおろして背もたれに上体を預け、ちらりと格の家のある方の壁に視線を遣り、宙を仰ぐ。
そして軽く目を閉じて小さな声で何事かを呟いたが、それは誰にも聞かれることなく頭上へ散って消えた。
−続−
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