Vol.1 太陽のかけら (6)


「申し訳ありませんでした、若頭」
 神之倉が病室に顔を出すなり、ベッドの上で身を起こした佐伯が神之倉に頭を下げた。
 さらにベッドを降りようとする佐伯を押しとどめて、神之倉は佐伯の後ろ首を2〜3度やんわりと叩く。
「お前が気に病む必要はない」
 佐伯を撃ったのは、昨年起こった揉め事での、相手の組の仕業だった。その時、調停に動いていたのが佐伯だったために狙われたようだ。
 佐伯は単なる調停役で、当事者ではない。いわば逆恨みだが、表立って動くからには当然覚悟しておかねばならないことでもある。
 もっとも組織だった動きではなく、組でも持て余し気味だった1人が勝手にやらかしたことだったらしい。
 1人の勝手とはいっても、下の者の面倒をみきれないのは組の責任だ。神之倉は、佐伯が撃たれたその日のうちに、容赦なく相応の“返礼”と手打ちを済ませていた。
「まだまだ駄目ですね、私は。氷上さんのように巧くやれたらと、いつも思っているんですが」
「なかなかあの狸のようにはいかんさ。焦らず磨けばいい」
「たぬ……。若頭、そんなこと言うと怒られますよ?」
「狸だろうが」
 苦笑して諫めた佐伯に、神之倉はきっぱりと言い切った。
 氷上の話術と交渉術は図抜けている。時と場合による使い分けの多様さ、相手をその気にさせる誘導と巧みに丸め込む手腕の見事さは、神之倉でもそばで見ていて空恐ろしいと思う時がある。
 氷上の凄いところは、その妙技が場の全員に作用することだ。どんなに困難な交渉の場でも、その場にいた全員を納得させ、かつ釘を刺す事を忘れない。
 例えば手打ちなら、血気に逸る組員が手打ちに納得しかねて後に暴走しかけた時、手打ちの場にいた大抵の者は暴走を止める側に回る。曰く、“氷上を敵に回す気か”――と。
 存在そのものを恐れられるヤクザは多々いるが、ほとんどは大組織の者や歳のいった大物だ。古賀沢クラスの中規模組織の一幹部で、年齢的にもまだ若いとなると、氷上の他には10人といないだろう。神之倉にはあまり自覚はないが、その中には神之倉も含まれている。
 先代組長が死去して一気に傾いた古賀沢が組を立て直せたのは、現代ヤクザに必要な氷上の“頭”とヤクザには必要不可欠の神之倉の“力”が揃っていたからだ。
「……若頭? 氷上さんと喧嘩でもしましたか?」
 ふいに、佐伯が聞いてきた。神之倉は、表情を全く動かさず否定する。
 喧嘩はしていない――と思う。格に関してのことは喧嘩をするまでもなく、氷上が勝手に作った合い鍵もすんなり神之倉の元へと戻っている。
 ただ、何かがもやもやと落ち着かない。そんな気はしていた。
「そう――ですか。それならいいんですが」
「そんなことよりお前、調子はどうなんだ?」
「快調ですよ、腹も減りますし。医者が言ってたんですが、応急処置がなかったら危うかったかもしれないらしいです。あの子のおかげですね」
「そうだな」
 致命的な箇所に被弾しなくても、失血を抑えられなければ死に至る。神之倉も佐伯の担当医から聞いたが、氷上が指示したとはいえ、格の処置は完璧に近かったらしい。
 止血をしたあとも、脱がせた背広を掛けて体温の低下を防ぐことを怠らなかったため、大事に至らずに済んだという。これは、氷上が指示したことではないらしい。
 そこまでやってのけた格に対して、神之倉も驚きそして感嘆した。
 ほんの子供だと思っていたが、神之倉が思うよりずっと、格は強くて大人なのかもしれない。
「あの時の様子は宮川から聞きました。たいした子ですね、あの子。お礼、伝えといてください」
「ああ。だが、さっさと復帰してきて自分で言え。お前が元気になりゃ、あいつも安心する」
「はい」
 神之倉は、佐伯の無事だった右肩を軽く叩いて、病室をあとにした。

 佐伯のことがあってから少々神経質になっている若い組員達が、この日も部屋までついて行くと言い張った。
 通常なら、部屋までの送り迎えは全くないか、佐伯だけがやってくるかのどちらかなのだが、この数日は何人もがついてこようとする。その度に大丈夫だと言い含め、マンションの前で帰らせるのに一苦労だった。
 守ろうとしてくれているのはわかるのだが、もう少しどっしり構える豪胆さがほしいところだ。
 エレベーターを降り、静まりかえっているフロアを進む。午後11時過ぎ。このマンションの住人の大半は仕事中だろう。
 角を曲がり、自室が視界に入った。――と、自室の手前の部屋のドアが勢いよく開いた。
「おかえり、士朗」
 顔を出した格が、神之倉に向かってにっこりと笑いかける。
「お前、こんな時間に何やってるんだ」
「士朗を待ってたんだ。ちょっとでいいから声が聞きたいなーと思って」
 大阪から戻ってきてすぐに佐伯の件があり、格とは病院で会ったきりで3日が過ぎていた。1週間以上ろくに会話も交わさなかったのは、親しく話すようになって初めてかもしれない。
「だからってお前、こんな時間に――もしかして、ずっと玄関にいたのか?」
 やりかねない。そう思って格の手を取ると、やはりその手はひんやりと冷たかった。
「まだ夜は冷えるんだから無茶するんじゃない。風邪引くだろうが」
「士朗と会えるんなら風邪ぐらいどうってことないんだけどな」
 平然と嘯く格に、神之倉は苦笑せざるをえない。
 事実、神之倉のそばにいるためならどんなことでもすると言い切ったとおり、格の中ではこのくらいは大したことではないのだろう。
 この諦めの悪さを厭わしいと思ったことは不思議となかった。粘着質なものとはほど遠く、何故か天真爛漫な明るさを失わないからだ。
 一緒にいても疎ましくも煩わしくもない。察しがいいようで、忙しい時や立て込んでいる時は邪魔をしないし、神之倉の都合を無視した事はしない。
 佐伯が迎えにきた時や、マンション前で組員といるところに出くわしたことも数回あるが、そういう“古賀沢組若頭としての神之倉”でいる時には、会釈程度で気軽に話しかけては来ない。格に言わせると、それも「邪魔になるから」らしい。
 会いたい時は、今夜のように“隣人である神之倉”を待っている。その健気さに、つい絆されてしまう。
「うちに来るか?」
「いいの?」
「ただしもう遅いから、少しだけな」
「うん。ありがと士朗」
 格は、少しだけはにかんだ、そしてとても嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 居間のソファのいつも位置に腰を下ろし、格がマグカップを両手で包んで手のひらを温めている。
 神之倉は、背広を脱いでネクタイを緩めた姿で、銜えた煙草に火を点けた。
「12時には帰れよ?」
「うーん」 
「こら。少しだけだって言ったろう。東子さんが心配するぞ」
「携帯持ってるから連絡つくし、ここにいるならいっそ安心すると思うけど」
 ほんの少し考えてそう言った格に、神之倉はあらためて格が夜のあいだ一人きりだということに思い至った。
「そうか……1人でいることが多いからか…?」
「携帯? うん、そうだよ。東子はあんましうるさく言わねーけど、やっぱ夜中ひとりにしとくの心配なんだろうな。俺、まだガキだし」
「――お前が年齢以上に大人であろうとするのは、東子さんのためか?」
「うーん…それもあるけど、こういう風に育てたのも東子だよ? 東子って、子供だからまだダメ!ってあんまり言わないんだよ」
 格は、手のひらで弄んでいたカップをテーブルに置いて、ソファに深く腰掛け直した。
「ひとりで頑張ってる東子を見てて、俺が大人だったら楽させてやれんのになって思うこともあったよ」
 格の母も、亡くなった父親も天涯孤独らしく、榎本親子には頼れる親族がいない。格が物心ついた頃でも母親はまだ20代前半、苦労することも色々とあったろう。いまさらながら、格が大人びていることの一因として納得がいく。
「でも東子なりに楽しんで働いてるってわかったし、やっぱり何もかもすっ飛ばして大人になったら、なんかが足りなくなりそうじゃん? だから、今の自分に出来ることから始めて、俺のペースでなるべく早く大人になろうと思って」
 それにしたって早すぎだ。しかも少々一般的ではないぞと、自分のことを棚に上げて神之倉は思う。
「士朗を好きになってからはね、目が覚めたら10歳年取ってたらいいのにって思ったりもしたけど」
 格の真っ直ぐな瞳が、神之倉の姿を映した。右手を胸に当てた格の唇が、微笑みを形作る。
「でも、これが“榎本格”だし」
 譲れないものを抱き続ける強さと、自分を受け入れる潔さ。教えて身につくものではないそれらを、一体どうやって手に入れたのだろう。
 葦のようなしなやかな強さと太陽のような明るさを目にする度に、それは鮮やかに神之倉の中に焼き付けられる。神之倉の生きる世界にはない光に目が眩み、惹きつけられる。
 神之倉は言葉もなく、光から目を逸らすように、手にした煙草の先端を見つめた。
「そうそう、氷上が電話くれたんだけど、佐伯さんもう起き上がれるんだって?」
 ふいに訪れた沈黙に、格が明るい声で話題を変えた。
 しかし、氷上の名を耳にした途端、このところずっと抱えていたもやもやとした感じが強まった。その心地の悪さに、神之倉は僅かに顔をしかめる。
「士朗?」
「――ああ。佐伯がな、お前に礼を伝えてくれと言っていたぞ」
 不思議そうに声をかけてきた格に、神之倉は我に返って昼間の佐伯の言葉を格に伝えた。
「止血もよくできていたし、背広を掛けて体を冷やさないようにしていたのも良かったと医者が言っていた。よく知っていたな」
「ああ、あれ? 漫画で覚えた」
 格はいたって明るく笑って言った。
 いざとなったときに使えない知識や技術は、鞘から抜けない匕首と同じだ。知っているかいないかが問題なのではなく、実践できるか否かが問題なのだ。
 尋常でない場面で、記憶にあったそれを思い出して実際にやってのけた格は、やはり氷上の言うとおり、滅多にいない器だと神之倉も思う。
 神之倉はソファに掛けたまま姿勢を正して、格に頭を下げた。
「俺からもあらためて礼を言う。ありがとう、格」
「ちょっ、士朗! そんなことしなくていいってば!」
 突然のことに、格が慌てて立ち上がる。
「そうはいかん。組の者が世話になったんだ。あいつの兄分としても、お前にはちゃんと礼を言わなきゃならんと思っていた」
「頭下げてほしくてやったんじゃないし、助かったんならそれでいいんだって!」
 格は神之倉に駆け寄って、体を起こそうと腕を引いた。
 無理やり引き起こされてやっとのことで顔を上げた神之倉に、格は苦笑を浮かべて溜め息をつく。そして、その場にすとんと座り込むと、神之倉の膝頭にこつんと額を乗せた。
「……あれが全然知らない人だったら、俺あそこまで出来たかどうかわかんないよ。佐伯さんは俺のこと覚えててくれて、会うとちゃんと笑って挨拶してくれて、それに――あの人に何かあったら、士朗が辛いだろ? 好きな人が、大事な人を亡くして辛い思いをするのは哀しいよ」
 神之倉は動かずに、ぽつりぽつりと話す格の声を黙って聞いている。
「あの時俺は、体も動いたし声も出た。だから俺は、俺の出来ることをしただけ」
 その“出来ることをする”ために一歩踏み出すのが難しいのだ。その一歩がなければ、万が一ということもあり得た。頭を下げるに値することだと神之倉は思っている。
「だけど氷上が教えてくれなかったら、俺なんにも出来なかったよ。だから氷か」
「だが、実際あの場にいて止血したのはお前だろう」
 格の言葉を遮るように、神之倉は言った。
 思いのほか語気が強くなったことに我ながら驚愕して、神之倉は咄嗟に手のひらで口元を隠した。ゆっくりと顔を上げた格が、驚いた顔をして見上げてくる。
 そして神之倉は、ここ何日か自分の中に渦巻いていた不透明な何かの正体に気付いた。
「――」
「…士朗……?」
 訝しげに問う格に、神之倉は何も答えられなかった。それどころか、唐突に自覚した己の中のとあるモノについて、動揺を押し隠すので精一杯だ。
 大阪から戻った日からずっと、絶えず胸の奥にあったモノ。
 喧嘩をしたつもりもないのに、氷上に対してすっきりしない自分。
 格が氷上の名を呼ぶことを、思わず遮ってしまったほどの――
 これは嫉妬だ。
「……まいった……」
「? なにが??」
 たまらずこぼれた一言に、疑問符だらけの胸の内がありありと判る顔で格が問い掛ける。
 言えるわけがない。
 自分の知らない会話を交わしている、携帯電話の番号を知っていて緊急時とはいえ格からかけてきた、今日も電話でのやり取りがあった――そんなことに妬心を抱いたなどと、どんな顔をして言えるというのだ。
「士朗? 具合でも悪いのか?」
 不安げな顔をした格が、神之倉の正面に回って膝立ちになり、口元を手のひらで覆ったまま仏頂面で押し黙っている神之倉の顔を覗き込んだ。
 急に近づいた顔に、神之倉の心臓がらしくもなく跳ね、正面から向き合ってみろという氷上の言葉がふいに蘇る。
 なおも答えない神之倉に、格はさらに表情を曇らせ、躊躇いがちに身を引いた。
「あの、俺――帰るよ。遅くにごめ」
 最後の“ん”は、神之倉の胸に飲み込まれるようにして消えた。
 格の体を両腕の中に収めた神之倉の唇が自嘲気味に歪む。もう、苦笑するしかなかった。
 腕の中の体の質感を確かめるように、少しだけ腕に力を込める。不思議なほど、こうしている自分に違和感がない。
 先ほどまでの動揺が嘘のように落ち着いて、腕の中の存在を愛しいと思う。
 いつから、そんな思いが生まれたのだろう。
 最初から惹かれていた。けれどそれは、愛でも恋でもなかった。ただ鮮烈に、胸に焼き付いただけだ。それが、いつのまにか形を変えて胸の奥深くに在ったらしい。
 折に触れて格が口にしてきた「好きだ」のひとことが水を注ぎ、それを厭わなかった自分が無意識に土壌を耕した。そしてついに芽を出してしまった感情が、急速に大きく育っていくのがわかる。
「……士朗……?」
 抱きしめられたままじっと黙っていた格が、やっと口を開いて恐る恐る神之倉の名を呼んだ。
「ん?」
「あの、えっと…」
「どうした?」
「だから、その――」
 神之倉は、上手く言葉にならないらしくあれこれと言い澱む格の体を、腕を緩めて解放した。身を離した格は、半信半疑の眼差しを神之倉へと向ける。
 これまで一度も格の想いに応えたことなどなかったのだ。無理もない。
 神之倉の顔に微苦笑が浮かんだ。
「なあ、格。俺は男で、ヤクザで、ずいぶんと年が離れていて――お前が幸せだと思える毎日を送れるかどうかわからんぞ?」
「そんなこと言ったら、俺だって男で、まだガキで、士朗を幸せにできるかなんて全然わかんねえよ。でも俺は、士朗のそばにいられるなら幸せなんだ」
 格の偽らない真っ直ぐな眼差しが、射るように神之倉に向けられる。これまで幾度も惹きつけられた強い瞳を、神之倉はじっと見返した。
「初めて会った時から士朗はヤクザで、俺よりずっと年上の大人の男で、士朗の中にはこれっていう絶対に譲れない決まった何かがあって、それはたぶん士朗が生きてる世界の何かで――そういう士朗を、俺は好きになったんだよ」
 格の手が、神之倉の胸に触れた。ちょうど心臓の上に置かれたその手のひらから、そしてひたむきな眼差しから注がれる想いが、砂が水を吸うように神之倉の中に浸透する。
「だからさ、ヤクザだとか年上だとかは、俺が幸せになれない理由にはならねえよ?」
「だがな、格。誰かに殺
(と)られるか寿命まで生き延びられるかはわからんが、どちらにしても確実にお前より先に俺はいなくなるぞ」
 あえて厳しい言い方を神之倉はした。
 神之倉自身はいい。自分の命の使い方はすでに決めてあるし、覚悟もできている。
 だが、同じ覚悟を格に強いることはできない。神之倉と違って、格にはまだいくらでも変えられる未来
(さき)がある。
「だから!」
 格の両手が、神之倉のワイシャツの胸を掴んだ。
「だから俺は、士朗に気持ち伝えたんだよ。これでも、最初は迷ったんだぞ。俺は男で、ガキで、好きだなんて言っても士朗は困るだけじゃないかって思ってた。嫌われたり迷惑だと思われるんじゃないかって」
 神之倉は、2度目に好きだといわれた夜を思い出す。
 迷いのない瞳で好きだと言う格の中に、震えるほどの不安と怖さがあることに気付いたその夜は、ただその懸命さが眩しくて、自分の気持ちも曖昧で、指一本動かせずに座っていることしかできなかった。
「でも、なんにも伝えないまま突然士朗がいなくなったらと思ったら、そっちの方がずっと怖かった。それでも、いつかそんな日が来るとしても、それまでは誰より近くにいたい。あんたのそばにいたい」
 真摯な眼をして格が言い募る。神之倉は右手を上げ、格の頬を手のひらで包んだ。
 いつも格は、神之倉の予想を超えた言動を見せる。好きだと告げられたときも、佐伯のことも、そして今も。
 己の気持ちに正直に、ただ素直に想いを告げてきたのだと思っていた。だが、不安や怖さを乗り越えただけでなく、神之倉の覚悟もその立場も、格なりに理解した上でなお好きだと告げてきたのだとは、思いも寄らなかった。
 佐伯の運ばれた病院から出ていくときも、格は神之倉がどこへ行くかを解っていて、笑って送り出してくれた。ある意味、神之倉についている若い衆よりよほど腹が据わっている。
 何も知らない子供ではない。だから、隠せない。伝えておかなければならない。綺麗事など以ての外だ。
 神之倉は、格の頬を指先でひと撫でして一度目を閉じた。そしてゆっくりと息を吐いて、再び目を開けて格を見つめた。
「……俺は古賀沢の先代の盃を受けている。先代が亡くなってからは、いまの四代目がお前の言う俺の中の“絶対”だ」
「……うん」
 突然、格がこれまで見たことのない表情で静かに話し出した神之倉に、格は慎重に頷いた。
 揺らぐことのない、悽愴さを秘めた眼差し。古賀沢組の若頭の顔で、神之倉は続ける。
「もしも同じ日、同じ時間にお前と四代目が別の場所で命の危険にさらされていたら、俺は四代目のもとへ行くぞ?」
「……組長さんが助かったら、そのあとは俺のとこに来てくれる?」
「ああ」
「だったら、崖にぶら下がってても、海で溺れてても、士朗が来てくれるまで頑張る。何があっても。でもいつか、自力で這い上がって士朗のところへ行けるくらいになりたい」
「俺の命は四代目に預けてある。たとえば俺の命でお前が助かるのだとしても、俺はお前のためには死ねない。それでもいいか?」
「いいよ。俺のために死んでくれなくてもいい。俺のために生きてくれれば、それでいい」
「……――」
 過ぎる程に大人びているが、暗い悲壮感はない。葦のようにしなやかで、強い。アスファルトに咲く花のように強かで、健気で、清しく潔い。時に強引な言動も、神之倉にとっては常に光を放つ陽のようだ。
 これほど真っ直ぐな想いをくれ、そして知識ではなく心でこんなにも解ってくれる存在が他にあるだろうか。
「まいったな」
 ただその一言しかない。
 手の中の、太陽のかけらのような一個の存在。その全てに参ってしまった。
 神之倉は身をかがめ、万感を込めて格の唇にくちづけた。
 抱き寄せた肩と、神之倉のシャツの胸のあたりを掴んだままだった格の指先が、ぴくりと震える。
 ゆっくりと顔を離すと、放心したように神之倉を見上げる格と目が合い、神之倉は微笑んで見せた。
 刹那、格の顔がくしゃりと歪み、体当たりするような勢いで神之倉の首に抱きついてきた。
「……格?」
 ソファの背もたれと自身の体とでその衝撃を受け止め、そっと呼びかける。渾身の力で神之倉にしがみつく格からは、なんの返事もない。
「格…? 泣いてるのか?」
「……泣いてない…」
 返ってきた声が微妙に揺れていたことに神之倉は気付いたが、それには触れずにおくことにした。
 のし掛かるように抱きついてきた格の体を、片膝の上に抱き上げるようにして引き寄せ、抱き返して後頭部を撫でる。子供扱いに過ぎたかと思ったが格はされるがままで、ただガッチリと神之倉にしがみついて離れない。
 神之倉はふとあることを思い出して、ぽんぽんと格の背中を叩いた。
「格、ちょっと離してくれ」
「やだ」
「お前にやるものがあるんだ」
「……なに?」
 やっとのことで顔を上げた格を引き剥がし、神之倉はその手を取った。手のひらを開かせて上向かせ、その上にポケットに入れていた金属の固まりを乗せる。
「これからは表でも玄関でもなくて、部屋で待ってろ。ただし何時に帰るとは約束できないからな、いい時間になったらちゃんと自分の家に帰れよ?」
 勝手に作った合い鍵を返して寄越す際、格にあげるようにと氷上は言った。だが神之倉は頷きはしなかった。こういうことになるとは思わなかったのだ。その時は。
 格は手のひらの上の鍵を見つめて、
「ふつう合い鍵って、お付き合いの過程でもらえるものじゃないのか?」
「普通でなくともいいだろう?」
 すでにもう十分“普通”ではない。だがそれでいいと神之倉は思う。
「うん、いい。めちゃくちゃ嬉しい。ありがと士朗」
 格はとろけるような笑みを満面に浮かべて、神之倉の首に腕を回した。
 その喜びようが愛おしくて、なんとなく照れくさい。
 氷上に知られたら、やっぱりそうなったかと笑われるような気がするが、仕方がない。何を言われても甘んじて受ける覚悟をしておく。
 格から寄せてきた唇を、神之倉は避けなかった。


−終−


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