Vol.1 太陽のかけら (4)


 神之倉が、大きな手で格の頭を撫でて大阪に行くと言い残していってから、5日が過ぎていた。
 これまでも毎日顔を合わせていたわけではなかったが、何日も帰って来ないとわかっていると寂しさが増すものだ。
 戻るのは早くて週明けだと神之倉は言っていたが、なんとはなしに隣室の様子が気にかかる。もしかしたら早く帰って来るのではないかと、ついついマンションへ帰る足が早くなり、帰り着いては不在に落胆する、そんな毎日。
 格が神之倉に気持ちを伝えてから1ヶ月が過ぎていた。神之倉からは「考えた事がない」という返事だけで、拒絶まではされていない。
 どうやら本気だということはわかってくれたようなので、いまはそれでよしとしている。避けられることなく、以前と全く変わらぬ態度をとってくれていることに希望を繋いで、好きだと伝え続けるよりほかない。
 そんな中、突然神之倉がいなくなった。神之倉にとってはあらかじめ決まっていたことなのだろうが、格にしてみれば唐突なことだ。
 知らないうちにいなくなられるよりずっといいと、これまでも格が知らなかっただけでこういう事はあったのだと思って納得出来るほど、格は大人ではなかった。しかし、そういう自分を知っているあたりが子供らしくないところなのだが。
 いつものように、エントランスのポストを覗き、郵便物の有無を確認してエレベーターに乗り込む。夜の仕事や自由業の住人が多いこのマンションでは、格の帰宅時間に住人と出くわすことはあまりない。
 しかし、この日は違った。
 自宅の隣り、つまり神之倉の部屋の前に、男がひとり立っていた。
 神之倉とあまり変わらないくらいの長身で、トレンチコートが良く似合っている。年齢は神之倉と同じか、少し下くらいか。
 コートから覗く三つ揃いのスーツは品がよく、縁なしの眼鏡をかけた理知的な面差しは知的技術職か専門職を想像させるが、おそらく違う。うっすらと漂わせる雰囲気は、格のよく知る人物と同じものだ。
「あの……」
「榎本格くん?」
 格が何かを問うより先に、男から話しかけてきた。神之倉よりは若干高めだが、低くソフトな声だ。しかし多分それは、時と場合によって自在に変わるような気がする。
「違ったかな?」
「いえ、そうです」
 格は正直に答えた。そして、あらためて男の姿を観察する。
 髪も目も、色素が薄い。髪は漆黒でも濃茶でもなく、黒の色味が弱くうっすらとグレーがかって見える。瞳は、僅かに青みが差した濃灰色だ。どちらも人工的な色には見えず、それがこの男のとらえどころのなさを一層強くしている。
 格の視線を受けとめて、男は薄く微笑んだ。
「少し話がしたいんだが、いいかな?」
「俺、知らない人に簡単についていくように見えますか?」
 見えるのなら、少し改めなくてはいけないと思いながら格は訊いた。
 神之倉も、そして口には出さないが母親の東子も格を案じてくれている。この辺りの治安の悪さと物騒な世の中で危険を回避するには、自分自身がしっかりしてなくてはならない。それが、心配してくれている人への礼儀だと格は思っている。
 目の前の男は、思いの外やさしい笑みを浮かべた。
「見えないよ。俺がよくないな。名乗りもしないで不躾に悪かった。古賀沢組総本部長、氷上宏一という」
 格にはよく分からなかったが、なにやら偉そうな肩書きだ。東子から聞いたところによると組長に次ぐのが若頭らしいので、その下あたりなのだろうか。
「話すってここで?」
「いや、さすがに立ち話は――ここにしよう」
 氷上はそう言って、神之倉の部屋のドアを指差した。

 主のいない部屋の鍵を勝手に開け、慣れた素振りで上がり込んで暖房をつけた氷上は、キッチンをあちこち物色してお茶の用意を始めた。
「ったく、相変わらずろくなもん置いてねえな…。格くん、コーヒーでいいかな?」
「はい。えっと、呼び捨てでいいですよ」
「格?」
「しろ…神之倉さんもそう呼んでるし」
「それなら俺のことも氷上でいい。敬語も必要ないぞ」
 神之倉と同じようなことを氷上は言った。
 数分後、ソファに向かい合わせに座った氷上を前にして、格はいつになく緊張してコーヒーをすすった。氷上が何を目的として格に会いに来たのか、まだよく分からない。
「あの野郎、せっかくミルもサイフォンもあるのにインスタントで済ませてやがる。自分には無頓着な奴だから仕方ないがな」
 そのインスタントのコーヒーを口にして、氷上が苦々しげに言った。あの野郎とは、当然この部屋の主のことだろう。
「ミルとサイフォン、あったんですか?」
 神之倉がコーヒーを入れる姿は何度か見ているが、サイフォンもコーヒーミルで豆を挽く姿も見たことがない。
「敬語はいいって。シンク下の収納の中に入ってるよ。今度、いい豆を押し付けとくから、お前が奴に淹れてやってくれ」
「……あの、どこまで知ってんの?」
「大体のところは」
 言って、氷上はシニカルな笑みを見せた。
 格は姿勢を正して拳を握り締めた。脅されても、邪魔をされても、神之倉を諦める気はない。
「ああ、勘違いするなよ? 邪魔しに来たわけじゃない」
 格の心を読んだかのように、すかさず氷上が言った。
「ちょっと興味があったんで、一度話してみたいと思ってな」
「興味? 俺に?」
「ああ」
 もう一度、氷上は笑った。今度の笑みには、皮肉げなところは一切ない。
 氷上は足を組んで両手を軽く握り合わせ、上体をソファの背もたれにあずけて楽な姿勢を取った。
「さっき、俺が名乗る前に古賀沢の関係者だと気付いていたろう? どうしてわかった?」
「なんとなくだけど、士朗と同じ匂いがしたから」
「吸ってる煙草の銘柄は違うが」
「そういうんじゃなくて、なんていうか、思ってる事と見てるとこが同じっていうか」
 神之倉の胸にある覚悟と守るべきもの。それと同じものが、氷上にもある気がしたのだ。しかし、佐伯やその他の神之倉についている男達からは、同じ印象は受けない。
「……怖くはないか?」
「怖がる理由ないよ」
「ヤクザっていうのは格好いいもんじゃないし、奇麗な世界でもないぜ」
 口調は軽く声は柔らかいが、濃灰色の瞳の奥は笑っていない。格は、氷上の言葉に正直に頷いた。
「だろうね。前に住んでたとこでご近所だったチンピラさんは、横暴でいつも暴れてて全然かっこよくなかったし、突然いなくなったと思ったら港に浮かんでたって新聞に出てた」
「そりゃまたお約束なタイプだな」
「でも、東子のお客さんだっていうヤクザのじいさんと会ったことあるけど、怖い顔したオッサン達をたくさん引き連れてても、横柄でも乱暴でもなかったよ。――あ、東子っていうのは俺のかーちゃんでホステスやってんだけど」
 格は一呼吸置いて氷上をじっと見つめた。
「いろんな人がいるだろ。堅気の人だって、ヤクザの人だって」
「そうだな。だが、社会一般的には暴力組織、極道は極道だ。この道は、平坦でも穏やかでも明るくもない。道を埋めているのは、血と金と暴力なんだよ、格」
 言葉と裏腹にいたって穏やかな声だが、その目だけが冷え冷えとした光を放っている。
 格は生唾を飲み込んでその視線に耐えた。
 根拠も確信もないが、何かを試されているような気がする。目を逸らしたら負けだと思った。
「その道は、自分のためだけの道なのか?」
「……どういう意味だ?」
「血を流すのが好きで、金が欲しくて、暴力を振るいたいから、その道を歩いてるのか?」
「はっきり言うなあ、お前」
「もちろんそういう人もいるだろうけどさ、氷上はどうなんだ? 士朗と同じものが氷上の中にもあるんじゃないの?」
「神之倉の中に何があるのか、お前にわかるのか?」
「わかんない。わかんないけど、士朗は何かを決めてる。絶対に譲れないものが、ここにある――気がする」
 そう言って、格は着ていた服ごと胸の辺りを掴んだ。
 神之倉の中の揺るがない何か。格はそれに惹かれて、神之倉を好きになった。
「――極道は、擬制の血縁関係で成り立っていてな」
 足を組み替えた氷上が、ぽつりと言った。
「ぎせいのけつえん?」
「親分と子分、兄貴分と弟分、盃を交わした相手に命を張るのが極道だ。もちろん、綺麗事だけの世界じゃないし、極道なりの“政治的”な駆け引きもあるからな。打算的に兄弟盃を交わすこともあるが」
 淡々とした口調で、氷上が続ける。
 外側だけを見たならそんな世界とは関わりないように見えなくもないが、中身は違う。言葉と目に宿るものは、穏やかに生きてきた人間にはないものだ。そしてそれを、開き直りや諦めではなく、静かに享受している。
 そんなところも神之倉と似ていて、格の中に氷上への親しみが湧いた。
「盃交わした相手のためなら、血にも塗れるし手も汚す――最近は、そうじゃない奴も多くなったが」
「氷上はどっち?」
「さてな」
「はぐらかさなくてもいーじゃん」
「……本当に物怖じしないなァ、お前」
「あ、ごめん…なさい」
 調子に乗りすぎたかと、乗り出していた身を引いて格は謝った。だが氷上は、緩く組んでいた指を解き、なんでもないという風に片手を上げた。
「お前が謝る必要はないさ。俺こそ悪かったよ」
 表情を消していた氷上の顔が、ふっと緩む。鋼が放つような眼の光りも、瞬時に消え去った。
 そして、格の疑念が確信に変わる。
「……やっぱりなんか試してた?」
「気付いてたのか」
 少しだけ驚いた顔で氷上は言った。格はこっくりと頷いて、
「なんとなく……でもなんで?」
「最初に言ったろう? 興味があったからさ。神之倉のどこに惚れてんのかも知りたかったしな」
「どこって……全部」
 あっさり返ってきた答えに、氷上の口角が上がる。
「あいつはあれで武闘派で鳴らしている。うちの組の“力”の頭があいつだ。おキレイな人間じゃねえぞ。それでもか?」
 氷上は、シニカルな笑みを湛えて意地悪く訊いた。だが格には、そんな言葉に動揺するようなものは何もない。
「初めて会った時から士朗はヤクザだったよ。そういう士朗を好きになったんだよ、俺」
「―――」
 沈黙した氷上の濃灰色の瞳が、じっと格を見つめる。格は、真っ直ぐその目を見返して続ける。
「キレイな世界じゃなくても、そこにいることを選んだのは士朗自身で、そこで生きてきて今の士朗がいるんだろ」
 神之倉の中にある揺るがないもの。覚悟。それは、ヤクザとして生きていくためのもので、神之倉は自分の道をそれと決めている。おそらく、他に選択肢を持っていないし、持とうともしない。
「夢見て憧れてるわけじゃないよ。俺に見せてくれるやさしい顔も、佐伯さん達に見せる厳しい顔も好きだ。俺の知ってる士朗とは別の顔があるとしても、それも士朗ならそれごと好きだ」
 きっと、格の知らない顔もあるのだろう。当たり前だ。格が知っているのは、この部屋にいるときの神之倉と、マンションの前で補佐役だという佐伯や厳つい顔の組員に囲まれているときの神之倉だけだ。
 けれど、たとえ氷上の言うような組の“力”としての神之倉や、血にまみれた神之倉を見たとしても、嫌いになどなれない。神之倉の中にあるものは何ら変わりないはずだからだ。
「あ、でも二重人格みたいに中身ごとガラッと変わっちゃうなら、そっちの士朗を見る時間ほしいかも――って氷上?」
 見れば、氷上が俯いて肩を震わせている。何事かと格が問い掛けると、氷上は弾かれたように声を上げて笑い出した。
「え? な、なに? 俺なんか変なこと言った?」
「は、はははッ…いや、変っていうか――」
 腹を抱えて笑っていた氷上は、咳払いをして無理やり笑いを飲み込んだ。そして、格に向かって柔らかく笑いかけた。
「お前が何もわかってないただのガキならぶち壊そうかと思っていたんだが――なるほどなァ。気に入ったよ、格」
「…えーっと……喜ぶとこ、だよな?」
「もちろん」
「ありがと…」
 何やら釈然としないが、格は礼を言った。何が琴線に触れて笑い出したのかわからないが、神之倉と近しそうな氷上に気に入ってもらえたのは嬉しい。
「氷上って、神之倉とはどういう関係?」
「この道に入る前からの付き合いだ。もう……15年以上になるか」
「長いんだ」
「いつの間にか、な。おかげであいつのことはうんざりするほどよく知ってる。――ああ、心配すんな。そういう付き合いじゃないし、俺にもあいつにもそんな気はないから」
「士朗はそうだろうけど……じゃあなんで俺を試しに来たんだ? 気に入らなかったらぶち壊そうと思ってたんだろ?」
 神之倉は、格に対してはっきりと男はそういう対象だと思ったことがないと言った。だからといって、氷上も同じかどうかは、格に判断する材料はない。
「あれでもうちの組の“顔”なんでな。あいつにとって良くないものなら、排除する権利と責任が俺にはあるんだよ。あいつの気持ちがどうだろうとな」
 一方的な言い分だが、神之倉の置かれている立場からすれば、氷上の言うことも間違ってはいないのだろう。一瞬、氷上の瞳を掠めた厳しい色を目にして、格は納得した。
「だが、もういい。お前なら、俺に文句はないよ」
「――男で、子供でも?」
「その辺はあいつ次第だしな」
 氷上は、突き放した物言いをして、スーツの内ポケットを探った。そして、出てきた名刺ケースから一枚取り出し、裏面に何かを書き付ける。書き終わったそれは、テーブルの上を滑り格の前で止まった。
 格は、それを拾い上げて、11桁の数字に視線を落とす。
「俺の携帯番号だ。何かあったら電話しな。相談事でも、あいつの攻略法についての質問でもいいぞ」
「……え?」
「味方してやるよ。頑張んな」
 驚いて顔を上げた格に、煙草を口に銜えた氷上がにやりと笑ってみせた。
「えっ、だって、氷上は士朗の友達なんじゃねえの? 会ったばっかりの俺の味方なんかしていいのかよ?」
「味方するだけだからな。手を貸すのとは違う」
「どう違うんだ?」
「気持ちの問題」
「???」
 そう言われても、どう違うのか格にはよくわからない。
 渋面で名刺を見つめて悩んでいる格に薄く微笑んでみせて、氷上は立ち上がった。
 ジッポの小気味よい音が小さく響く。
 煙草の苦い香りが、ふわりと漂ってきた。


−続−


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