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Vol.1 太陽のかけら (3)
いつもそうなのだ。氷上はいつも、この男に勝てない。
口で負けた事は一度もない。殴り合いの喧嘩をしたとしても五分…勝敗は運次第だろうと思う。
しかし氷上は、神之倉に勝てたと思ったことがない。
それはたぶん、神之倉が持っている“氷上にはないもの”に感謝と敬意を抱いているからだろう。
揺るがなき自己抑制も、あるがままを受け入れ目を背けない強さも、一度懐に入れた者に対する寛容さも、氷上にはない。ない事に対しては口惜しさや羨ましさはなく、むしろ有り難いとすら思うのだ。氷上に欠けているものを神之倉が持っていてくれるから、在りたい場所で在りたい自分でいられる。
もっとも、改めて礼を言った事などないが。
「で、お前はどうしたいんだ?」
目の前で、眉間に深い皺を刻んで困惑を顕わにしている神之倉に、氷上は問い掛けた。
「どうもこうも……小学生だぞ?」
神之倉は渋面を氷上に向けて嘆息した。
この男、隣りに越して来た小学生に告白され、猛アプローチを受けているらしい。しかもその小学生は男だという。付き合いは長いが、こんな相談を受けるのは初めてだ。
「ヤクザだってバラして遠ざければいいだろうに」
神之倉は若頭という地位に在るため、外出の際は補佐役と数人の若い衆が付く。補佐役の佐伯は、対外的な役目もあるため一見したところ極道らしさはあまり伺えない。しかし若い衆は、明らかに筋者という面構えだ。小学生のボウズのほのかな憧れなど、ひと睨みで蹴散らせる。それなりに脅しておけば、面白がって仲間を誘って探検紛いの真似をしたり悪戯を仕掛けたりするような、子供にありがちな無謀な事はしないだろう。
しかし神之倉は首を横に振った。
「その手は効果がなかった」
「なんだ試したのか。随分と肝の太いガキだな。それとも恐いもの知らずなだけか?」
ヤクザがどういうものかわからない純真無垢な子供なら、それも有り得なくはない。
「そこらの大人よりよほど世の中を知ってる。あれは恐いものを知らないわけじゃなくて、腹が据わってるんだ」
「……いま11歳だと言ったよな?」
「ああ。この春で6年生だそうだ」
「大人顔負けの肝の太さで、怯むこともないって?」
「ああ」
「―――」
違う意味で興味が湧いてきた。面白そうな子供だ。
「何考えてる」
神之倉が氷上を睨んで寄越した。
読まれている。さすがに長い付き合いだ。氷上は曖昧に返して煙草をくわえた。
「なんで突き放せないんだ? お前が本気で睨んでやれば一発だろうが」
ヤクザというより古武道家のような印象を抱かせる男だが、極道としての修羅場を幾度も潜って来ている。そうでなければ若頭など務まらないし、古株の組員がその地位を許すはずがない。
神之倉が黙って睨むだけで、大抵の人間が怯んで押し黙る。一見した物静かさと視線の悽愴さのギャップが生み出す恐ろしさは、どこから見ても極道といった男達の比ではない。
「お前が怒らないから押して来るんだろうが」
「ああ……」
苦い顔で頭をかく神之倉の歯切れが悪い。
「まさかお前」
「いや、それはない」
先回りして返された答えに、氷上は頷いた。神之倉は独り身で囲っている女もいないが、そちらの方面にことさら淡白というわけではない。溺れもしないが、これまで幾人か付かず離れず関係のある女はいた。だが、その女が未成年だったことは一度もなかった。当然、子供を相手にする趣味はない。
では何故?
「……すまん。うまく言えん」
より渋い表情でしばし考え込んでいた神之倉は、やがて軽く頭を下げ潔く謝った。極道の意地の通し方を誰より体現している男だが、氷上に対してはなんの衒いもない率直さも見せる。氷上がそれに弱い事など、この男は知らない。
だが氷上は、埒のあかない悩みごとに真摯になってやるほど優しくはなかった。
「……子供のする事だと放っておけない、かといって突き放しきれないのは、多少はその子に心動くところがあるからじゃないのか?」
氷上はそう言って煙草の火を揉み消した。
組の若頭をいつまでも悩ませておくわけにはいかないという客観的な思いが3割。その子に会ってみたい、その子が神之倉にどう挑んでいくのか興味があるといった好奇心が3割。残りが、あえて突き放す氷上の親愛の情だ。
「俺は別にかまわんぞ。性的嗜好なんざ些細なことだ。お前は色恋沙汰で人が変わるような柔らかい性格してねえし、組に面倒を持ち込むようなことも絶対にないしな」
それは確信を持って言える。たとえ自分の命がかかっていても、組に迷惑がかかるようなことはしない男だ。
神之倉は苦笑を浮かべた。
「褒められてるんだか、けなされてるんだか」
「褒めてんだよ」
氷上の言葉に何かを感じたのか、神之倉は再度眉間に皺を寄せて沈思し始めた。氷上は新しい煙草に火を点けて、黙って神之倉の言葉を待つ。その一本を短くなるまで吸い切り、2本目を咥えたところでやっと神之倉が口を開いた。
「……惹きつけられるものがあるというのは確かかもしれないな。それを心が動くというなら、俺はそれを否定しない」
神之倉の目が、真っ直ぐに氷上を見つめる。
「湿地の葦のような子だ。足下が泥にまみれていても、空の青さを知っている。だが足下の泥を厭うことはない。あの子には倒れても自分の足で立ち上がる強さがすでにある。それでいて太陽のような明るさも持っている。あの明るさは、自分以外の人間を照らし出せるほどに強い」
「――何が上手く言えない、だ。いつから詩人になった」
氷上は、吐き捨てるように言ってやった。どちらかと言えば言葉数の少ない神之倉がこれほど言葉を尽くして人を褒めるのを、氷上はいまだかつて聞いたことがない。
「なあ、神之倉」
氷上は紫煙を細く吐き出して、神之倉を見つめた。
「一般的な世間体や常識を気にしてるのなら、今すぐそれは捨てちまえ。俺らヤクザには無縁のものだろうが」
「たしかにな」
「お前が心から望んだ結果なら、人倫なんざどうでもいい。何も憚る必要はねえから、真っ正面からその子と向き合ってみろ」
「無茶苦茶言いやがる」
身も蓋もない物言いに、神之倉は苦笑した。
「ただし」
言って、氷上は人差し指を立てた。
「お前にとってマイナスになるようなら容赦なくぶち壊させてもらうがな」
「氷上。お前、俺が落ちることを前提に話を進めていないか?」
気持ち的には落ちたも同然だろうが。
苦く笑う神之倉に、氷上は口には出さずにそう突っ込んだ。如何にいつもと違う言動をかましているのか、自分では気付いていないのだろう。
「いい子なんだ」
「あ?」
「とても、いい子なんだよ。折に触れて好きだと言われるが、こっちの都合を無視した事はしないし、一緒にいても疎ましくも煩わしくもない。だから、突き放せなかった」
……こりゃあ9割方ボウズの勝ちだな。
氷上は呆れ返って、神之倉に気付かれぬようにそっと息をついた。
神之倉はもう、その子の存在を受け入れてしまっている。通すべき筋を通さず守るべき道を踏み外した者――無論、堅気の人間にとってとは違う“筋”であり“道”であるが――に対しては容赦ないが、存在を受け入れ一個人として認めた相手には、時に過ぎるほどに寛容なのだ。たとえその存在が枷や重荷になろうとも、それごと抱えて歩いてしまう。
神之倉にとって遠ざけるべき者でないかぎり、その子には十二分にチャンスがあるという事だ。
「どちらにしろ、早めに答えを出すことにする。今のままではあの子にとっても良くないしな」
「…そうだな」
たしかに、いくら“普通”の子とは違うとはいえ、組とは何の関係もない子だ。
一家の若頭を張っている神之倉の周囲は安全な場所とは言い難い。昔ほど仁侠に篤いヤクザは少なくなったが、それでも堅気衆を巻き込まないという不文律は、組によって重要さに差はあれど残ってはいる。古賀沢も例外ではなく、むしろその気風が強めだ。
「ありがとう」
「なんだ突然」
不意に放たれた神之倉の一言に、氷上は訝しげに応じた。神之倉は静かな眼差しで氷上を見ていた。
「お前がいつも冷静でいてくれるから、俺は、いざとなればお前に背中を押してもらえると甘えているのかもしれないな」
「俺が押しても動く気がなければ動かんだろうが。お前がそんな殊勝なタマか」
照れくささ半分、本音半分で、煙草の煙とともに吐き捨てる。
神之倉は笑みを浮かべただけで、それには答えずに立ち上がった。
「何にせよ来週だな」
「ん? ああ、大阪か」
神之倉の今後のスケジュールを思い浮かべ、氷上は頷いた。大阪での会合がある。何事もなければ、帰って来るのは来週早々だ。
「……来週か」
「何か言ったか?」
「いや」
小声で放った呟きに神之倉が聞き返して来たが、氷上は首を横に振った。そして手にしていた煙草を口元に運ぶ。
手のひらで隠された唇に、あるかなしの笑みが浮かんでいたことに、神之倉は気付かなかった。
−続−
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