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Vol.1 太陽のかけら (2)
突然だった。
何の前触れもなくそのひとことは発せられ、かつてない困惑を生み、目にした真摯なまなざしが神之倉の胸に焼き付いた。
「俺、あんたのことが好きだ」
11歳の少年は、はっきりとそう告げた。
少年が母親とともに神之倉の部屋を訪れたのは、夏の名残を十分に留めた9月の始めのことだった。
前日までの晴天が嘘のような篠突く雨の午後。
朝まで広島にいた神之倉は、戻ってすぐに半ば強引に一日オフを言い渡され、午後には帰宅していた。
スーツの上着をハンガーにも掛けずソファの上に無造作に脱ぎ置き、ネクタイを緩めワイシャツのボタンを幾つか外して首元を寛げて、滅多に電源の入れられる事のないテレビの画面をぼんやりと眺めていたところ、インターフォンが鳴った。
隣りに越して来た母子が、引っ越しの挨拶に来たのだ。
母だと言われても俄かには信じ難いほど若く見える母親は、榎本東子と名乗った。そして、20代前半の見た目からは想像もできないくらい育った息子を紹介された。
「格です。よろしくお願いします」
物怖じせずにそう言って会釈をした彼の印象的な眼を、神之倉は今でもはっきりと思い出すことができる。
強くて、深い。それが、第一印象だった。
知っている眼だ、と思った。何も知らない子供の眼ではなかった。こういう眼をした子供は総じて暗い光を宿していて、年のわりに大人びた空気を纏っているものだ。
しかし格は、大人びてはいたが、陰鬱な暗さを見せなかった。
いつ顔を合わせても笑顔できちんと挨拶をする。時には会話を交わすこともあったが、いつも快活で怯む様子がなかった。
格と会話をすると、不思議と心が和んだ。飾らない笑顔と裏表のない言葉が、笑顔と言葉の裏を読まなければ生きていけないような世界にいる神之倉にとって稀少なものだったからだろうか。
やがて、ひと言ふた言が1分2分になり、それが5分10分に延びて――
「あれ、今日は早いじゃん士朗」
「どうした、こんなところで」
マンションの入口前の階段に腰を下ろしていた格を立たせながら神之倉は訊いた。2月になったばかりの冷たい空気に、格の手はすっかり冷えきっている。
名前で呼ぶのを許したのは知り合って3ヶ月も過ぎた頃だ。神之倉さん、という呼ばれ方が何故だかどうにも気恥ずかしかったのだ。敬語も使わなくていいと言ってある。当初は固辞した格だったが、いつの間にか名で呼ぶことも普通に会話をすることも自然になった。神之倉も、格のことは名前で呼び捨てている。
「東子の彼氏が来てるんだ」
「先月見掛けた男か?」
神之倉は、格の背を押して促しながら尋ねた。すでに日が暮れかけている。冬の夜気に格を晒し続けておくわけにもいかない。これまでにも何度か、同じ状況の格を部屋に入れてやっていた。
「あれの次の男だよ」
格はさらりと答えたが、この母子が越してきて5ヶ月で、神之倉が知っているだけで4人目の男だ。しかし格は、母親に新しい男ができる度におおらかに笑ってきた。今も、その顔に笑みがある。
「今度のは長続きするかもな。東子の好みのタイプとは逆の男だから」
母親を名前で呼び、冷静な見解を述べる。しかし親子仲が悪いわけではない。むしろ良過ぎる程に良い。唯一の肉親であり誰よりもそばにいる最大の理解者であるお互いを、この親子はとても大切にし合っている。
「どうして好みのタイプじゃないと長続きするんだ?」
「東子の好みのタイプは死んだ俺の親父だもん。同じタイプなら親父と比べちゃうだろ? 東子の中では、今でも親父が最高の男だからな」
神之倉の部屋に入り、勝手知ったるという慣れた様子で居間のソファに座って、格は神之倉の疑問に答えた。神之倉は、コートと上着をキッチンに面したカウンターに2脚だけ置いてあるスツールに放り投げ、湯を沸かしにかかる。
「親父がさ、俺が先に死んだら他にイイ男をつかまえろって言ってたらしいんだよ。ホラ、いつどうなるか分かんない仕事してたからさ」
格の父親はフリーカメラマンで、主に紛争地を専門としていたらしい。たしかに、いつどうなるか分からない仕事だ。現に彼は、格の誕生を待たずに亡くなっている。
「だから東子は、親父の遺言通りイイ男を探してんだけど、11年かかっても親父以上の男に会えねえから、ああやって取っ換え引っ換えなワケ」
そこで格は、神之倉が差し出したカフェオレをひとくち含んで一息つき、
「結局、親父がすげーイイ男だったっていうより、東子には親父が一番だっただけだと思うんだよな。だから何人と付き合おうが、親父以上っていうのは見つからないと思うんだけど」
神之倉には比べるべき対象――つまり世間一般的な11歳の少年――がよく分からないのだが、格の外見はどんなに上に見積もってもせいぜい小柄な中学生といったところだ。しかし、こんなませた物言いが気にならない大人びた雰囲気が、格にはある。
「お前はそれでいいのか?」
コーヒーを片手に格の向かいのソファに腰を下ろし、神之倉は尋ねた。
「好きでもない奴と付き合ってたことはないし、いいんじゃない? 東子まだ28なんだしさ」
生まれた時から母子家庭だったからなのか、母親が父親以外の男と関係を持つことに嫌悪感はないらしい。しかし、俗に男の子は母親への愛情が深いという。母親が自分をないがしろにして男に入れあげていることに、妬心も憤懣もないのだろうか。
「しかし、現にこうやって締め出されてるだろうが」
「オレが勝手に出て来てるんだよ。お邪魔虫になりたくないじゃん」
「だがな、この辺りは治安が良くないし、逆に心配かけてるんじゃないか?」
このマンションの周辺は夜の仕事や裏の商売を生業としている住人が多く、裏通りでは暴力沙汰も時折あるのだ。子供を一人で歩かせたい場所では決してない。
「友達の家に行くって連絡入れなければここだって判ってるだろうから、心配はしてないと思うけど」
「……どういうことだ?」
なんとはなしに含みのある物言いに引っ掛かり、神之倉は問い掛けた。
格は、真っ直ぐに神之倉を見返す。その瞳に、ひどく見覚えがあった。
「俺に行き場がないと、士朗が拾ってくれるだろ」
そう言って格は笑った。その笑みに、神之倉は愕然とする。まさか――
「お前、わざと」
「言ったじゃん、俺。あんたが好きだって」
同じだ。これだったのか。
神之倉は既視感の正体に気付き、かつて同じ台詞を投げ掛けられた時と変わらない格の眼を見返した。
「あんたのそばにいるためなら何でもする。ずるい手だって使うよ」
そう言う格の瞳は強く、そしてどこか哀しい。
「好きなんだ」
どんなことでもするというなら、たとえばか弱さを演出する女なら、ここで泣き出しそうな顔を見せるか、いっそ涙のひとつでも流すだろう。しかし格は、ただ真っ直ぐに神之倉を見つめる。何でもするとは言うが、気持ちを伝える時は小技も変化球も使わない。ストレートで真っ向勝負だ。
神之倉には、その鮮やかなまでの真っ直ぐさが眩しかった。計算ずくのしおらしさは何度も目にして来たが、この清しいまでの潔さには免疫がない。
「士朗が好きだ」
答えない神之倉に、格はもう一度繰り返す。
そのとき神之倉は、格の手が微かに震えていることに気付いた。
目を逸らさず揺るがない強い瞳で見つめて来ても、自信に満ちているわけではない。不安や怖さを、小さな体に隙間もないほどに必死に押し込めている。
その懸命さにせつなさのようなものが込み上げ、たまらない気持ちになった。
「……格」
神之倉は、格を手招いた。緊張した面持ちで近寄って来た格を隣りに座らせて、その顔を覗き込む。
「正直に言うぞ」
「うん」
「俺は、男も子供も、そういう対象として考えたことがない」
「……うん」
「だから格のことも、そういう対象とは思えない」
「……それは、この先ずっと?」
「……わからない」
そうだ、と言えなかった。考えたことがなかったのだから、予測のしようがない。
神之倉は、じっと見上げて来る格の頭を撫でて、なだめるようにポンと軽く叩いた。
「とにかく、外で待っているのはもうよせ」
「心配してくれてんの?」
「ああ」
見知った間柄ということを差し引いて客観的に見ても、格は整った容姿をしている。金銭目当てでなくとも連れ去られる子供が多い昨今、格が被害に合わないという保証はどこにもない。胡散臭い誘いに簡単についていくような子ではないが、大人の力で暴力を振るわれたら、いかに格とてどうなるかわからない。
「……わかった。もうしない」
格はきっぱりと言い切った。そして、嬉しげな、はにかんだ笑みを見せる。
「どうした?」
「うん」
格は答えず笑って、神之倉の左肩に額を押しつけた。
本当は聞かずとも解っていた。神之倉の心配が、格には嬉しいのだろう。
せつなさが蘇る。
けれど神之倉は、指一本動かせず、ただ座っていることしか出来なかった。
こんな眩しさを、神之倉は知らない。
−続−
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