Vol.1 太陽のかけら (1)


 好きだ、と思った。
 特に強烈な出会いだったわけではない。だが、初めて会ったその日から、格の中に彼の人の存在が深く確かに刻まれた。

「――って格も思わねえ?」
「え? 悪い、聞いてなかった」
 格は、話しかけて来たクラスメートを慌てて見返した。
「なにボーッとしてんだよ? 好きな女子でも出来たのか?」
「そんなんじゃねーよ」
 格は即答で否定した。嘘ではない。格の好きな人は、どこから見ても男だし、11歳の格より21歳も年上の立派な大人だ。
「それより何だって?」
「だから、ウチのクラスの工藤だよ。最近かわいくなった気しねえ?」
「くどう……ああ、工藤佳奈? そうだな、最近…」
「だろ?」
 最近、服装が派手になってきた。いわゆる、少女ブランドの服だ。理由はたぶん、同じクラスの木村だろう。このところ工藤は、木村をよく見ている。
「お前、工藤のこと好きなのか?」
「ばっか違うよ!」
 クラスメートは大きく首を横に振った。そう一生懸命否定されては違うとは思えないのだが、それは言わないでおく。
「隣りのクラスの佐々木もかわいいよな」
「ああ……」
「榎本? なんだよさっきから。具合でも悪いのか?」
 気のない返事を放った格の顔を、クラスメートが心配げに覗き込む。
「……んー、やっぱなんか調子悪いかも。帰るわ」
 格はそう言って立ち上がった。これ以上話を続けていても、この話題には乗れそうにない。すまないとは思うが、気も漫ろで相槌を打つよりいいだろう。
「去年引っ越したとこ、前の家より遠いんだろ? ひとりで大丈夫かよ?」
「5分くらいしか違わないから大丈夫だよ。サンキュ」
 格は手早く荷物を纏め、クラスメートの声を背中に放課後の教室を出た。

 いくつかの角を曲がって学校が見えなくなると、格は歩く速度を早めた。
 先程のクラスメートとの会話が蘇り、その最中に心を占めていた人の面影が浮かぶ。
 神之倉士朗。
 格の住むマンションの隣室の住人。古賀沢組、若頭。
 初めて会ったのは、母親と一緒に引っ越しの挨拶に出向いた時だった。対応に出て来た神之倉を見た途端、格は引き付けられるように目が離せなくなった。
 何故だかはわからない。ただ、落ち着いたたたずまいや低く心地よい声、引っ越しの挨拶の品を受け取る手指の角度まで、いまでも鮮明に思い出せる。
 かっこいい人だと思った。どこかが、格の知っている大人達と違った。
 今にして思えばそれは、何かを心に決めてそれを貫き通しているような、常に何かを覚悟しているような、そんな揺るぎないモノの現れだったのだろう。
 一目で好きだと思ったが、2〜3日は思い悩んだ。保育園の保母さんを皮切りに淡い思いを抱いたことは何度かあったが、それが同性だったことはなかったからだ。
 それに、年の差がありすぎた。無意識に父親を求めているのかと、格が生まれる前に他界した父の写真を改めて見てみたが、神之倉と似ているところは特にない。
 恋だと自覚したきっかけは、母親の東子のひとことだった。
――さっき神之倉さんに挨拶しちゃった。若いのに迫力あって渋くて好きだな〜。
  奥さんいないんなら立候補しちゃおうかな。
――やだ……ッ
――……いたる?
 東子に訝しげに尋ねられ、初めて自分が何を言ったのか気がついた。
 格は、東子の男を見る目と自分への愛情を信じている。だからこれまで、東子の付き合う相手に駄目出しをしたことはない。加えて、「駄目だ」でも「やめろ」でもなく「嫌だ」では、語るに落ちるとはこのことだ。当然、東子もすぐに気付いた。
 それから格は彼なりに努力して、神之倉との距離を縮めてきた。顔を合わせ、言葉を交わし、少しずつ少しずつ近づいていった。
 神之倉がヤクザだということは、少しも問題ではなかった。神之倉も、彼と一緒に見かけることがある明らかに筋者の男達も、怖いとは感じなかった。
 ある日、神之倉から呼び捨てでいいと言われ、格のことも名前で呼んでくれるようになった。いまではもう、年の違わない友人のようにタメ口で会話が出来る。むしろ神之倉の方がそれを望んでくれる。
 そして、神之倉を好きになって4ヶ月が過ぎようとしていた。
「ただいまー」
「おかえり〜」
 玄関ドアを開ける音を聞き付けたのか、東子の声はすぐに返って来て、続いて本人も現れ勢いよく格を抱きしめた。ハグは習慣と化していて何の違和感もない。友達の家に遊びに行って初めて、日本の一般家庭にこういう習慣はないと知ったくらいだ。
「さっき士朗さんに会ったよ。今日は早く戻ってくるみたい。肉ジャガのおすそわけでも口実にして遊びに行っちゃえ」
 この通り、格が神之倉を好きだと知ったその時から、東子は全面協力態勢だ。
 さすがに、親子ほどに年の離れた大人を、そして同性を好きになった我が子を手放しで応援する母親とは如何なものかと思わないでもないが、東子独特の持論によれば年の差も性別も問題ではないらしい。
「で、鶏肉ジャガがいいのか? 豚? 牛?」
「トリでね、白味噌仕立てがいいな」
「了解」
 たくさん作っちゃったの少しいかが?という古典的な戦法を使うとはいっても、神之倉の分だけ作れば東子が拗ねるのは必至なので、格はあらかじめ東子のリクエストを聞いておく。これまでも何度かこれを口実にしてきて、話のネタに好き嫌いなども聞いてみたが、神之倉には特に食べられないモノはないらしいので大丈夫だ。
 2年前に東京を出て横浜に移り住んでから、通勤時間が増えた東子と食事の支度を交代制にした。元来器用な格は着々と料理のレパートリーを増やし、特に煮込み料理は東子絶賛の得意分野だ。
「ねぇ、格」
 ジャガイモの皮を剥いていた格を、ふいに東子が後ろから抱き締めた。
「なんだよ? 早く支度しないとシゴト遅れるぞ」
 東子は、銀座でホステスをしている。そもそも、格を一人で育てるために実入りの良い職を選んだのだそうだが、これが天職だったようで大層な売れっ子なのだ。
「まだ大丈夫よ。それより格、士朗さんに告白しないの?」
 さらりとストレートに問い掛けられて、格の頬に朱が差した。困った顔をして俯いてしまった格の髪を、マニキュアで綺麗に彩られた東子の指がかき回す。
「最近ずっと士朗さんのことばっかり考えてるでしょ。ボーッとしてること多いわよ」
 東子の言う通り、格は神之倉のことばかり考えている。
 会いたい。声が聞きたい。言葉を交わしたい。広い背に触れたい。手のひらのぬくもりを感じたい。
 望むことは増え、好きだという想いは募るが、それに伴って膨らんでいく別の思いもある。
「……東子は大丈夫だって言うけど、やっぱり士朗は大人で、年だってすごく離れてるし、俺は男だし子供だし――」
「怖いんだ?」
「……怖いよ」
 嫌われたくない。迷惑がられたくない。あの深い黒瞳が、自分を見てくれなくなるのが怖い。――こんな思いは初めてで、どうしていいかわからない。
「でも、士朗さんが好きなんでしょ?」
 問われて、格は躊躇なく頷く。
「ねえ、格。前にも言ったけど、年が離れてても性別が同じでも、好きだって気持ちに違いはないのよ。別の誰かと比べられるものでもないの」
 格もその通りだと思っている。この想いは、格だけのものだ。
 けれど、格と神之倉の間には高く強固な壁がある。乗り越えて行きたいけれど、登り切る前に壁の向こうの神之倉の姿が消えてしまったら――格は拳を握り締め、脳裏に浮かんだ荒涼とした景色を懸命に打ち消した。
「待つのが悪いなんて思わない。でもね、大人になるまで待ってたって、士朗さんとの年の差が縮まるわけでも、格か士朗さんの性別が変わるわけでもないでしょ?」
「……東子、それはちょっと嫌だ……」
 性別が壁の一部なのは確かだが、性転換までは格の頭にはなかった。スーツのよく似合う厚みのある体に長身の神之倉が、10年後に性別が変わっていたらさすがに怖い。
「単なる喩えよ。それに格、もし士朗さんが突然いなくなっても後悔しない?」
「……ッ」
 神之倉のいる世界では有り得ないことではない。特に神之倉は組の重職に就いている。いまだって、格が知らないだけで、平穏な日々を送っているわけではないのかもしれない。
 考えもしなかったこと――考えないようにしていたのかもしれない――を指摘されて、格は自分を抱き締める東子の腕をすがるように掴んだ。
「もしそうなったら……俺、後悔する。絶対」
「うん」
「絶対する――」
「そうね」
 一番大切な人を亡くす哀しみと悔しさを知っている東子は、格の頭をやさしく撫でた。
「伝えても、どうにもならないかもしんないけど」
「大丈夫だってば。格はかわいい。かっこいい。男前」
「なんだよ、それ」
 褒めまくる東子に、格は吹き出した。
「格はあたしの可愛い可愛い自慢の息子だもん。近い将来、最高の男になること間違いなしよ。士朗さんにだって自信を持って言えるわよ?」
「めちゃくちゃ親ばか」
 堂々と宣言した東子に、格は笑ってそう返した。
 少し、勇気が出た。

 22時を少し回った頃。
 じっと玄関に座り込んでいた格の耳に、聞き覚えのあるリズムの靴音が飛び込んできた。
 耳を澄まし、確かに隣室のドアが開けられたのを確認すると、格はキッチンに飛び込んで、丹誠込めて作った肉ジャガの鍋を火にかけた。
 15分後、器に盛りつけラップをかけた“おすそわけ”を手に神之倉の部屋の前に立った格は、
「大丈夫、大丈夫、大丈夫――」
 今夜何度唱えたか解らないひとことを繰り返し、呼び鈴を押した。
 5秒――10秒――15秒――心臓が痛くなるほどの緊張の末に、扉は開かれた。
「格。どうした?」
 神之倉は、ワイシャツにネクタイを緩めた姿に銜え煙草で、格に微笑みかけた。
「これ、たくさん作ったから」
「ああ、美味そうだな。ありがとう」
 いつものことなので、いまではもう遠慮せずに受け取ってくれる。
「あがっていくか?」
「うん」
 神之倉から切り出してくれて、ほっとした思いで格は答えた。
 あまり物のない神之倉の部屋は、いつもきれいだった。部屋にいる時間が少ないせいもあるのかもしれない。
「何か飲むか?」
「ううん。それより士朗、話したいことがあるんだけど」
 格は、声が裏返らないように気を付けながら、慎重にそう切り出した。心臓の音が、耳の奥で煩わしいほどに響いている。
「どうした。何か相談事か?」
「そういうんじゃないんだけど――」
 大丈夫、大丈夫、大丈夫。
 格は、呪文のように心の中で繰り返して、神之倉を見上げた。
 落ち着いた色の瞳に、格が映っている。いつもは上げられている前髪が少し乱れ、スーツで隙なく身を固めている時よりもほんの少しだけ若く見えたが、しっかりした肩や胸が大人の男の鷹揚さを醸し出している。
 時にやさしく格の頭を撫で、肩を叩く大きな手。低く落ち着いた声。広い背中。指先。
 スポンジが水を吸うように、じんわりと好きだという想いが全身に染み渡る。
 格は一歩踏み出して、神之倉のネクタイに手を伸ばした。そして、それを手前に引いて神之倉を無理やり屈ませると、
「俺、あんたのことが好きだ」
 真っ直ぐに神之倉を見つめて、そう告げた。
 神之倉は無言だった。さすがに、驚いた顔をしている。
 吐き出してしまうと不思議なくらいに落ち着いて、格は微笑みさえ見せて掴んでいたネクタイを手放した。
「―――」
 神之倉は何かを言おうとして口を開いたが、何を言ったらいいかわからなかったのか、結局ひとことも発せずに口を噤んだ。そして、静かな眼差しを格に向ける。
 格は黙ってそれを見返した。
 神之倉の目には、拒絶も嫌悪の色もない。だが、享受の色もない。
 それでも不安はなかった。気持ちを伝えられたことが嬉しい。すぐに答えをもらえなくてもいい。
 格は、神之倉に笑顔を見せて、身を翻した。
 そして、リビングから玄関へ続く廊下へ出る間際に振り向き、
「冗談でも悪戯でも遊びでもないからね、士朗。それだけ覚えといて」
 ひとことだけ残して、神之倉の部屋をあとにした。


−続−


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