氷上宏一という男。【その2】


 氷上宏一、33歳。
 常に冷静怜悧。組の頭脳にして、財政を一手に握る古賀沢の中核。
 その道では、敵に回したくない男の十指に入るという、噂。

 空の端にまだわずかに頭を覗かせている夕陽に照らされて、花びらが1枚、また1枚と落ちて来る。例年より早く開花したソメイヨシノは、その分早く盛りを迎えていた。
 駅からマンションへと向かう途中にある桜の木が数本並ぶ歩道を、格は全力疾走に近い速度で駆けていた。神之倉の元へ向かうためだ。
 今日は前々から友人達と映画を観に行く約束をしていたのだが、神之倉が丸一日オフだということを昨夜になって知った。神之倉にとっても突然降って湧いた休日だったらしい。
 1日中そばにいられることなど滅多にない。出来ることなら神之倉と過ごしたかったが、約束していた全員の予定が合う日が今日しかなかったので予定の変更は断念した。うち1人が県外へ引っ越して学校も別になってしまうため、皆で会うことはしばらくないだろうからだ。
 格は、夜には神之倉と共に過ごせると自分に言い聞かせ、夕方まではめいいっぱい友達との時間を楽しんだ。別れの集いなのに気も漫ろでは友人に悪い。
 そして、横浜駅で友人達と別れるなり、格は駆け出した。
 電車に飛び乗り、逸る気持ちを押さえつつ自宅最寄り駅まで戻る。
 桜の下を駆け、近道をして細い路地を抜け、マンションに到着するとちょうど1階にいたエレベーターに走り乗った。
 合鍵を持っているのだから遠慮せずに入って来ていいという神之倉の言葉に甘えて、呼び鈴を鳴らしはしたが返事を待たずに鍵を開け部屋へと上がり込んだ。
「士朗!」
「おう、おかえり」
 嬉々としてリビングに飛び込むなり左手のカウンターキッチンから声が投げ掛けられた。だがそれは、神之倉のものではない。
 格は慌てて声のした方を向いて、驚きに目を見開いた。
「氷上」
「映画、面白かったか?」
 キッチンに立つ氷上は白いシャツを腕まくりし、腰に黒いエプロンを着けて包丁を握っている。
「なんでいんの?」
「いちゃいけないか?」
「いけなくはないけど」
 複雑な思いが表情に出ないよう隠して格は答えた。氷上はそんな格にふっと笑って言い放った。
「2、3時間で退散するから、そのあとは押し倒すなりなんなり好きにしな」
 隠したはずの格の心中は簡単に見破られてしまった。邪魔だとまでは思っていないが、2人きりだと思ったところに氷上がいて拍子抜けしたのは確かだ。
 しかし、神之倉と出会って1年半が過ぎたが、この部屋で氷上の姿を見たことは一度しかない。しかもエプロン姿とは、一体どうしたというのだろうか。
「お前が朝からいないって聞いたからさ。お前がいりゃあ一緒に食うだろうが、あいつ1人だと適当なもんを適当に食って済ませるからな。酒の肴のついでにメシを作ってるってわけだ」
 氷上はまったく危なげない慣れた手つきでアスパラガスのはかまを落としながら、格が心の中に浮かべた疑問に答えてくれた。
「大抵外食だし、そうじゃなくても俺のうちで飲む方が多いから、ここで作ることは滅多にないがな」
 そう言いながらも、このキッチンを使い慣れているかのように迷いなく手を動かし続けている。
 そんな氷上にさらに問い掛けようと口を開いた格より先に、背後から声が飛んだ。
「格?」
 名を呼ばわったこの部屋の主は、綿のシャツにスラックスと、隣室に住んでいる格でもあまり見ることのないラフな姿でひょいと廊下から顔を出した。どうやら、廊下沿いにある寝室にいたらしい。
「士朗」
 格は顔だけでなく体ごと反転させて振り返り、氷上がいるのもお構いなしに勢いよく神之倉の胸に飛び込んだ。
 ラグビーかアメリカンフットボールのタックルのような勢いを腹に食らった神之倉だが、よろめくこともなく平然と受け止めた。そしてしがみつく格の背にゆるく腕を回す。
「映画、楽しかったか?」
「うん」
 格は素直に答えて顔を上げた。見下ろす神之倉が、格の髪をやさしく梳く。その顔がいつもと違うことに、格はすぐに気付いた。
「…ん? ああ…忘れてた。おかしいか?」
 視線に気付いた神之倉は苦笑して疎らに髭の生えた顎を撫でた。
 普段は毎朝剃っているのだが、いまは昨朝以来剃っていない。思えば起き抜けの状態で格と顔を合わせたことはまだないので、生えるまま放置してある無精髭面を見せるのは初めてだ。
 格は笑顔で首を振って、滅多に見られない髭面に手を伸ばした。
「かっこいいよ」
「そうか」
 小さく吹き出して苦笑いするその顔は、髭の効果かいつもよりも男くさく見える。
 そうして神之倉は、中断してきた古いスーツの整理を終わらせてくると言って、また寝室へと戻っていった。
 残された格は少し残念そうな顔を見せたが、すぐにそれを収めて笑顔を作り、キッチンの氷上に目を遣った。
「手伝うことある?」
「俺より神之倉のほうを手伝ってやれ」
 問い掛けた格に氷上は答え、顎で廊下の方を示す。
 格は嬉しげに頷いて、持っていた荷物をリビングのソファへと下ろすと、神之倉の後を追った。

 昨夏のある日の会話を思い出しながら、格はキッチンに立つ氷上の背を見つめていた。
「古臭い家だったからな、昔は台所に入ったこともなかったぜ。飯を炊くのは女のすることだって言われてな。だから家事一般には縁遠かった」
 稽古をつけてもらったあとの雑談の最中に、氷上の作る料理は美味いと東子から聞かされたことがあるのを思い出して、炊事や掃除・洗濯などをどうしているのかと尋ねてみた格に対する氷上の答えだ。
 氷上が料理をすると聞いても炊事洗濯をする姿はいまいち想像できなかったので、むしろその答えには納得がいった。問題は“現在”である。
「でもいまは料理できるんだよな? すっげえ上手いって東子に聞いたことあるけど、いつから始めたんだ?」
「17くらいからだったかな」
「そんな頃から一人暮らしなのか」
 格は氷上の身の上を詳しくは知らない。だが、少なくとも“古臭い家”だという実家はあるらしい。
 男子厨房に云々という家だったのなら、一人暮らしでもしなければ料理をする機会はないだろう。まさか「高校で料理クラブに入った」などという度肝を抜く理由ではあるまい。
 しかし、返って来た答えは別の意味で驚くものだった。
「いや、一人暮らしは18からだな。料理を始めたのは、当時付き合ってた女のために夜食を作るようになったのがきっかけだ」
「夜食…?」
「仕事を持ってた女だったからな。当時25か26だったか」
「17で年上の女の人の夜食を作るような付き合い方してたのか?」
「お前に言われたくねえよ」
 氷上は煙草を銜えて格の額を指先で弾いた。そして、
「いい女だったぜ」
 さらりと言い放ってふっと笑みを浮かべた。
「俺はずいぶん年下だったし、いつもじゃないが小遣いをもらったこともあるから、端から見りゃあ恋人ってよりは燕かペットってとこか」
「高校生……だったんだよな?」
「ああ。だから彼女とは夜の1、2時間かたまの休日しか会えなかったな。それでも1年近く続いたんだが」
 氷上に女の影はない。正確には、いるのだろうがその影が見えない。しかし、過去にどんな女と関係があってもおかしくないと思わせる、物馴れた雰囲気がある。
 トラッドなスーツを隙なくそして嫌味なく着こなし、理知的で、怜悧で、だが生真面目には見えず、俗な部分があってもおかしくない。
 変幻自在と言おうか、実につかみ難い男だ。
「まあ料理ったって自己流だしな。東子ちゃんの賛辞はありがたく受け取っておくが、たいしたことねえよ」
 氷上はそう言って笑い、格の頭を手の甲で軽く小突いた。
 だが、そんな氷上の言葉はどうやら謙遜だったようだ。
 手早く一品作り終え皿に移すまでの手付きは鮮やかで、出来上がってリビングのテーブルに並ぶ料理は、食欲のそそられるいい匂いを発していて実に美味そうだ。彩りも良く、店で出されてもおかしくない。
「神之倉」
 手伝わないというより、氷上の領分には立ち入らないといった風情でリビングのソファで新聞を広げていた神之倉を、ふいに氷上が呼んだ。
 呼ばれるままキッチンに向かった神之倉に、氷上が菜箸を差し出す。その先にある調理された筍を口に入れた神之倉に氷上が訊ねた。
「お前には甘過ぎるか?」
「いや、丁度いい。美味いよ」
「ん」
 嚥下して答えた神之倉に頷いて親指の先についたソースを舌で舐め取った氷上の視線が、ふっと格へ移った。
 格の知らない10数年で作られた入り込めない親密な空気にじっと様子をうかがっていた格は、氷上の手招きに応じて立ち上がり、2人の元へと向かう。
 そしてやって来た格に神之倉と同じように菜箸が差し出され、格はそれを口にした。
「――うまい」
「だろう」
 当然だといった笑みに、格は思わず「詐欺だ…」と呟いていた。
「誰が詐欺だ」
「だって、男子厨房になんたらって育ちだったって言ったじゃん〜」
「過去形だろうが」
「マジで自己流?」
「ああ。初めて包丁握った頃に基本的な知識は頭に入れたし、昔ちょっと凝ってた時期に多少研究はしたけどな、誰かに習ったことはねえよ」
 氷上はあっさりと答えた。
 先ほど「大抵は外食だ」と氷上は言ったが、それは確かだろう。自宅にいられる時間は神之倉並みに短く、まめに炊事をしている風ではない。
 それなのに、見た目も味もいい。たまに作る程度でそれも完全な自己流となると、相当センスがいいということだ。
 格は渋面を作って押し黙った。
 いまはまだ東子に習いつつレパートリーを増やしているところだが、東子や神之倉が誉めてくれるので料理には少しは自信があった。だが、まだまだ氷上のように鮮やかにはいかない。
 年齢差以上に経験値の違いがあるのだが、それでも悔しい思いが込み上げる。氷上が誰よりも神之倉に近い場所に立っていなければ、こんな風には思わないだろう。
 氷上はすべてを察した目で格を見遣り、「ま、精進しな」と髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
 そんな2人のやり取りを小さな笑みを浮かべて見守り、神之倉は煙草を取り出した。
「あ、俺にもくれ」
 目敏く見つけた氷上が声を掛ける。だが、その要望より一瞬早く、神之倉は手の中のボックスを握りつぶしていた。
「これで最後だぞ?」
 銜えた煙草を指に挟み、その手を掲げて見せた神之倉に、氷上は尋ねる。
「買い置きは?」
「ない」
「じゃあそれでいい」
「最後だって言ってんだろうが」
「ケチケチすんなよ。晩メシ代だと思えば安いもんだろ」
「…仕方ねえな」
 諦めない氷上に神之倉は苦笑し、煙草を銜え直して火を点けると、それを氷上の口に押し込んだ。
 そして、格の中で何かが臨界点に達し、ついにキレた。
 神之倉の両頬に手を伸ばして無理やり自分の方へ向けると、胸倉を引っ掴んで強引に屈ませ、噛み付くようにして唇を奪う。
「…っな…?」
 抱きつくことは人前でもしょっちゅうあるが、キスは2人きりの時以外したことはない。
 突然のことに驚く神之倉を背中に隠すようにして(体の大きさからいって全く隠せていないのだが)、格は氷上に向かって声高に宣言した。
「相手が氷上でも俺は断固として戦うからな!」
 逆毛の立った猫のように全身で威嚇する格に、氷上がにやりと笑う。
「俺にその気はこれっぽっちもないから安心しろ、格」
 その言葉は嘘ではない。今し方の笑みも、格の反応を面白がってのものだろう。
 だが、神之倉にとって最も気が置けない相手が氷上であることに変わりはない。
 そのことについての羨ましさと、氷上が敵でなくて良かったという思いを噛みしめて、格は神之倉をがっちりと抱きしめた。


−終−


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