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氷上宏一という男。
氷上宏一、32歳。
常に冷静怜悧。組の頭脳にして、財政を一手に握る古賀沢の中核。
その道では、敵に回したくない男の十指に入るという、噂。
「氷上ってさ、いつも三つ揃いだよな。ポリシー?」
まだ夏の暑さが幾分残る秋の初めのある日曜日の夕刻、古賀沢組事務所でふいに格が尋ねた。
青みがかったグレーのスーツに同色のベストを身に着けた氷上は、蒔麻の差し出した書類の束を受け取ってから格を振り返った。
「単なる好みだよ」
「やっぱり海外ブランドもの?」
格は、応接用のソファから身を乗り出して、近寄ってきた氷上の背広をぴらりと捲り上げる。氷上ならイタリアやらフランスやらのブランドスーツをさらりと着こなしそうだ。
しかし氷上は、格の予想に反して首を横に振った。
「いや、国内ものだ」
「氷上はずっと銀座の老舗でオーダーメードよね」
立派な黒檀のデスクの向こうの蒔麻が、氷上の代わりに答えて寄越す。
「へえ」
よくわからないがものすごく高そうだと思いながらじっとスーツの生地を観察し、格は視線を客用テーブルに移した。
テーブルの上には、格が事務所に来たときからずっと、大振りだが高さは15センチほどの平たい箱がいくつも積んである。
「ところでさ、さっきから気になってたんだけどあの箱なに?」
「ああ、あれは―――」
箱の山を一瞥した氷上が格の問いに答えようとした時、ノックの音がして部屋の扉が開いた。
「ただいま戻りました」
声とともに、神之倉が扉をくぐるようにして現れた。
「士朗」
「おかえりなさい神之倉」
喜色を浮かべた格と、デスクの向こうの蒔麻から同時に声が上がる。
神之倉は蒔麻に黙礼し、ソファから立ち上がって出迎えた格の頭に大きな手を置いた。
「来てたのか」
「稽古つけてもらったんだ」
昼前に午後から空いているという連絡を氷上からもらい、昼食後に組事務所までやって来て手ほどきを受けたのだ。夏休みが終わってからも、格は氷上に武道の稽古をつけ続けてもらっている。
神之倉ほど外出しないにしても、氷上も忙しく動き回っている。格が事務所に出向けるときに必ず時間が空くとは限らないので、氷上の勧めもあって格は週2回稽古がある空手道場にも通い始めた。
そして氷上が、不定期とはいえ週に1回以上は空手のおさらいも含めて稽古を見てくれるので、格はめきめきと上達している。
「神之倉、この後は? また出掛けるの?」
稽古の様子を語る格と神之倉の会話が途切れるのを待って、蒔麻が神之倉に問い掛けた。
「いえ、今日はもう出ませんよ」
「じゃあみんなでごはん食べに行きましょ。イタリア料理の美味しいお店見つけたのよ」
「いいですね」
立ち上がった蒔麻に、神之倉はあっさりと肯定して返す。それを聞いて、蒔麻は格に笑顔を向けた。
「格くんも」
「いいの?」
「みんなでって言ったじゃない。お肉のほうがいい?」
「このカッコでいけるとこならどこでもいいよ」
まったくの普段着なので、フォーマルな服装でないと入店できないところだと無理だ。このメンバーで外食することは滅多にない。肉でもパスタでも、格には嬉しかった。
「じゃ、イタリアンね。…って、この格好でイタリアンはなんだわね」
和服姿の蒔麻は、そう言って帯の上を軽く叩いた。出向く場や目的に応じて着替えるので、組長室に続く小部屋にはいくらかの着替えを常備してある。
蒔麻は少し待つように言って、隣室に入っていった。
「ああ、そうだ。神之倉、数点作っておいたから持って帰れ」
「ん? ああ。いつもすまんな」
テーブルの上の箱の山を指し示した氷上に、煙草を銜えた神之倉が頷く。そういえばそれを尋ねていたのだということを思い出し、格は会話に食いついた。
「作るって何を?」
「ああ、見るか?」
氷上も先ほどまでの会話を思い出したようだ。いちばん上の箱をテーブルの中央に下ろし、格に向かって箱の中身を見せてくれた。
出てきたのは――
「スーツじゃん」
どうやら上下揃っているらしい濃灰色のスーツだ。他の箱も同じ大きさということは、全て中身はスーツということなのだろうか。
「今回はまた、ずいぶん多いな?」
格が氷上に問うより先に、神之倉が言った。
「お前に似合いそうな生地が入っていてな。来月会合が続くからちょうどいいだろうが」
「ああ……3つだったか?」
「4つだ」
「あの――つかぬ事をお聞きしますが?」
『ん?』
神之倉と氷上の会話に割り込んだ格に、2人が同時に視線と応答を寄越す。
「“いつも”とか“今回は”とか――士朗のスーツって、ぜんぶ氷上の見立てなのか?」
『ああ』
2人の顔を順に見遣って尋ねた格に返ってきた声はまたも同時だ。
「もう十年以上になるな」
互いに視線を交わし合い、神之倉が先に口を開いた。その胸を、氷上が拳の裏でトンと叩く。
「こいつはセンスは悪かないが自分に無頓着だからな。ほっといたら適当なもんで済ませやがる。神之倉士朗は古賀沢の“顔”で、現代ヤクザの戦闘服はスーツだ。滅多なものは着せられん」
どうやら、自分の着るもの以上に拘りがあるらしい。
ということは――格は記憶を辿り、夏休み中に見た神之倉の部屋のクローゼットの中を思い浮かべた。
ずらりと並んだ山のようなスーツ。あれも全て、氷上が見立てたものということだろうか。
大きな箱の上に乗っていた細長い小さな箱を手にし、蓋を開けて中身を見た神之倉の口許がふっと緩んだ。
「このネクタイ、良い色だな」
「お前好みの色だと思ってな。先月作った秋物のスーツに合うぜ」
箱からネクタイを取り出した氷上は、神之倉の襟元にそれを合わせて断言した。
その様子を何かモヤモヤとしたものを抱えながら見ていた格は、どんな会話で出た話かは忘れたが、以前東子からスーツの仕立て方を聞いたことがあるのを思い出した。
「あのさ、スーツの仕立てって、いちいちサイズ測るって聞いたことあるけど――」
オーダーメードということは、当然採寸の上で常に体に合ったものを作る。当然色や形も本人の意向に添うはずだ。
だが聞いている限りでは、氷上が勝手に作っていて、神之倉も丸投げしているように受け取れた。
そんなもっともな疑問を投げかけた格を氷上が顧みる。そして、
「サイズなんて見りゃ分かるし、こいつの好みは何から何まで知ってる。仕立てたスーツが合わなかったことは一度もないぜ」
にやりと笑った氷上はさも当然だというふうに答え、着替えて出てきた蒔麻をくるりと振り返った。
「というわけで蒔麻さん、イタリアンはやめて和食にしましょうね」
「え! どこか危ない!?」
「ウエスト6ミリ増ってとこですかね」
「やだもう〜おととい食べすぎたからかしら!? 3日で戻すわ!」
氷上の所見を疑いもせず、蒔麻は高らかに宣言して両拳を握りしめた。そして、格に向かって手を合わせる。
「和食でもいい、格くん?」
「え? あ、うん」
和食は大好きだ。好きだが――
「な…なんかすっげー悔しい…かも……?」
十数年も付き合っていれば、このくらい当たり前のことなのだろうか?
格は眉を寄せて疑問形で小さく呟いたが、ドアへと向かって歩き出していた一同は誰ひとりそれに気付かなかった。
曖昧な口惜しさの対象は、涼しげなスーツの背中を見せたままドアの向こうに消える。
「どうした格?」
振り返った神之倉に呼ばれ、格は慌てて駆け出した。
−終−
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