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『コイノドレイ。』
「…ッ伊佐…もう離し――」
背後から腕を回し斎川の動きを封じた伊佐の唇に耳朶を食まれ、スーツを掻い潜った手の指先でワイシャツの上から胸の突起を探られ、斎川はたまらず懇願した。
スタジオの控え室など、いつ誰がやって来るかわからない。撮影前のスタンバイ中なので、鍵もかかっていないのだ。
案の定、ドアがノックされた。
「はい」
ノックの音とともに斎川を開放した伊佐が応答すると、アシスタントカメラマンの青年が顔を出した。
「伊佐くん、10分後にお願いしまーす」
「はい、わかりました」
伊佐はにこやかに答え、青年は駆け戻って行く。
そして伊佐は、ドアから顔を背けて息を詰めていた斎川を振り返った。
「大丈夫ですよ、斎川さん。服は乱さないように触ったから、どこもおかしくないです」
「……伊佐、頼むからもう、仕事中には――」
斎川は顔を背けたまま訴えた。急速に実に引き戻され、気恥ずかしくて顔が見られない。
伊佐がため息をついた。
「斎川さんが覚悟決めてくれるまでやめません」
「伊佐…っ」
「…斎川さん、いつになったら俺に跡付けてくれるの?」
伊佐が上目遣いで恨めしそうに斎川を見上げて低く問い掛けた。
そうなのだ。
斎川と伊佐は、いまだにキスまでの関係のままでいる。
泊まりに来いと自ら伊佐に告げたあの夜、斎川は結局何も出来なかった。
帰りに買った酒を飲み、微酔い加減でキスをして、ベッドへ行こうという伊佐の言葉にも頷いた。
もつれるように倒れ込んでスプリングを軋ませた時も、伊佐の手指で素肌を撫でられた時も、斎川は抵抗しなかった。
滑らかな伊佐の肌に触れて、抱きしめて、欲情もした。
それなのに、酒気でほんのりと赤みを帯びた伊佐の裸身が目に入った途端、斎川は怖じ気付いた。
見事に整った伊佐の体のどこにも、ほんの僅かでも跡など付けられないと思ってしまったのだ。
暗闇ならよかった。だが、ベッドサイドの抑えた明かりでも伊佐の姿がしっかりと見えてしまった。
一度意識してしまったら、もう駄目だった。触れることさえ怖くて、その後の伊佐との言い争いも平行線を辿り、なんと夜が明けてしまった。
それからひと月。斎川のあまりの頑固さに怒るのを通り越して呆れた伊佐は、攻め方を変えてきた。
普段は何事もないように接しているが、2人きりになると時ににこやかに、時に恨めしそうに斎川に問い掛ける。1日1回は必ず訊いて来た。隙を見れば接触を求め、責め、焦らし、そしてまた問う。
その度に斎川は答えに窮する。
着衣のまま触れられるところをあますところなく確かめられ、その度に息を上げてはぐらぐらに翻弄されていた。
戸惑いはあるが、触れられて嫌悪したことは一度もない。同じように触れてみたいと思う。
けれど、伊佐を目にすると竦んでしまう。
斎川は、モデルとしての伊佐に思い入れが深すぎるのだ。焦がれすぎている。
かつて斎川が夢見て辿り着けなかった場所に伊佐はいる。
モデルとして理想的な顔と肢体、そして強さ。伊佐は、斎川が過去に手放した夢そのものなのだ。
そして、伊佐自身のことも愛しく思っている自分も知っている。日に日に増していくその思いのまま体を重ねて、我を忘れないでいられる自信が斎川にはない。
衝動のまま強く口づけてしまったら、爪を立ててしまったら――仮定にすぎないと判っていても、伊佐の体に傷を付けてしまうかもしれない恐怖から逃れられなかった。
「斎川さん?」
「えっ? うわッ」
ふいにすぐ間近から声を掛けられて我に返り、斎川は思わず声を上げた。
「ひどいなあ…人を化け物みたいに」
「あ…ああ、伊佐…悪い」
「疲れてます? 具合悪い?」
「いや、大丈夫だ。撮影は? 休憩か?」
「なに言ってんですか。終わりましたよ」
「えッ!?」
驚いて周囲を見回してみれば、確かにスタッフたちが撤収作業を始めている。
何のために自分が伊佐についているのだと自問自答して、斎川は肩を落とした。
「すまない、伊佐……」
「いいですよ。疲れてるでしょ? 社長の仕事もあるのに、それちゃんとこなした上で俺についててくれて――無理させてますよね、俺。ごめんなさい」
控え室へ戻る道すがら、逆に謝り返されて斎川は慌てて首を振った。疲れていたわけではない。ただぼうっとしていたのだ。謝るべきは当然斎川の方で伊佐ではない。
「ごめんね合戦はキリがないからやめときましょ。次の仕事はなんですか?」
再度謝ろうとした斎川を、伊佐は先手を打って止めて話題を変えた。たしかに謝罪を繰り返していても仕方がない。仕事に集中しようと胸の内で誓って、斎川は手帳を広げた。
今日は2時間後に雑誌の取材、次にショーの打ち合わせ、その後は体のメンテナンスのためのマッサージ。斎川が目算した時間通りに事が運べば、全て終わるのは10時過ぎだ。
「マッサージで最後は嬉しいな。あれ、気持ちいいんですよね」
斎川がモデルをしていた頃から世話になっている整体師は、夜でも予約を受け付けてくれる。全身の凝りを解きほぐしてくれ、体がリラックスすることによりぐっすりと眠れるので、仕事が混んでいる時には一日の最後に伊佐を連れて行くようにしていた。
「少しでも疲れを残さないようにしておけ。来週は九州だか――ら」
「斎川さん?」
言葉を止めた斎川をいぶかしみ、伊佐が斎川を覗き込む。
「なんでもない。次の仕事まで2時間空くから食事にしようか」
斎川は、平静を装って笑みを浮かべてみせた。
満開の桜の中を、伊佐はゆっくりと歩を進めている。
ゆらゆらと舞い散る桜花の中にいて違和感がないのは、国際的なショーで通用する肢体とはいえやはり日本人だからだろうか。
そんな伊佐の姿を、老カメラマンがファインダーの中に捉え、フィルムに焼き付けていく。
今回撮った写真は、海外でも活躍している日本人デザイナーブランドの、来春のパブリシティ用に使われる。
本来この業界は、夏に毛皮を着て、冬に肌を露出するように、半年先の季節の仕事をするものだ。そんな中で1年後の広告のために撮影をすることには、クライアントの意向が強く働いている。
このデザイナーは、和の自然素材を盛り込んだテキスタイルでヨーロッパで人気が出てきたデザイナーだった。今後さらに和の要素を強めるため、象徴的な桜の花を映し込んだ広告にすることに決まったのだが、CGや作り物ではなく本物の桜を使いたかったのそうだ。
微妙な光の加減、大気の流れに任せて落ちてくる桜――たしかにそういったものは、人工的には再現しきれない。
担当カメラマンは風景写真で有名なベテランで、ショーモデルを撮るような撮影の経験はなかった。だが、モデルや服そのものではなく「人と自然」というコンセプトにはぴったりのカメラマンだ。
自然に埋もれず、だが異質にもならず――といった難しい注文に、今のところ伊佐は応えているように斎川は思う。
人物撮影が専門のカメラマンではないだけにやり難さもあるだろうが、文句ひとつ洩らさずに撮影を続けていた。
伊佐が所属するモデル事務所の社長として、そして現在伊佐のマネージメントをしている身として、バックアップに努めないわけにはいかない。斎川はこのところずっと思い悩まされている事柄を頭の隅に追いやって、目の前の仕事に集中した。
撮影には2日と半日を要した。幸い両日ともうららかな晴天で、天候にスケジュールを狂わされることもなく、ダメ出しが連発されることもなく、予定通りに撮影終了を迎えた。
静かな桜の名所だけあって、都会のように騒げる場所がない。打ち上げを帰京後に改めて行う事にして、撮影チーム一行はその場で解散となった。
撮影スタッフと別れ、ベースにしていたホテルから2人でタクシーに乗り込んでしばらくして、伊佐は寝入ってしまった。やはり疲れていたようだ。
肩にもたれ掛かり起きる気配がない伊佐に、斎川は体調への心配と同時に安堵もした。山の中へ中へと向かって行くタクシーを訝しく思われなくて済むからだ。
「ここどこですか…?」
夕刻に目的地に着き、寝ぼけ眼の伊佐を先に出し精算を済ませて降りた斎川に、呆然と伊佐が尋ねた。
「昨日のロケ地から少し奥に入った温泉地だ」
問いに答えた斎川は、鞄の中から度の入っていない眼鏡を取り出して伊佐に掛けた。帽子もかぶっているので多少は変装になる。
「……斎川さん…?」
「――撮影の予備日を2日取っていたから、予定通りに終わればその2日はオフになる。だから宿を予約しておいた」
「――それって……2人っきりで旅行ってことになるんですよね…?」
「そうなるな」
「もし撮影が延びてたら…?」
「そりゃあもちろんキャンセルだろう」
「……」
斎川の言葉を反芻していたかのように、少しの間伊佐が沈黙する。やがてその顔に、柔らかく甘やかな微笑が広がった。
「嬉しい――頑張ってよかった。ありがとう斎川さん」
斎川の体を抱きしめて伊佐が囁いた。
平日の奥まった地域の温泉郷でちょうど夕食時だったので幸い人気はなかったが、たまたまいなかっただけで無人というわけではない。斎川は慌てて伊佐の腕から逃れた。
「また逃げられた」
「屋外で抱き付く奴があるか!」
伊佐にはどうも顔が売れているという自覚が薄い。タレントや俳優ではないので芸能人という意識がないのはともかく、これだけ仕事量が多くて種々のポスターや広告が街中や雑誌にあふれている割りには、無頓着にすぎた。
「屋内だったらいいですか?」
「ばか」
笑顔で問い掛けた伊佐に、斎川は短い返答ともに踵を返した。
宿に向かって歩き出した斎川に伊佐も続く。
斎川は、胸の内に押し込めていた悩み事を思いだし、伊佐に気付かれないようにそっとため息をついた。
予約をしていた宿は老舗のホテルで、従業員の対応も部屋の作りも申し分なかった。
部屋は10畳の和室と8畳の洋室の二部屋続き。洋室も和風で仕立てられていて、セミダブルサイズのローベッドが2つ並んでいる。寝具は羽毛、和室にある座布団も程よい柔らかさで分厚い。
和室の床の間には水墨画が掛かり花が活けられ、違い棚には磁器が飾ってあった。
慌ただしさの全くない落ち着いた雰囲気の中で山の幸をふんだんに用いた夕食を堪能してひと息ついたところで、伊佐は部屋に入った時に女将にもらった温泉郷内の案内図を広げた。
宿の発行する手形をフロントでもらうと、6時から24時まで温泉郷内のすべての宿の温泉に入浴出来るというシステムだという。もちろん宿泊している宿の温泉は24時間入浴可能だ。
「斎川さん、温泉回りましょうよ」
思いがけないオフに2人きりで温泉旅行というサプライズがよほど嬉しかったのか、伊佐は上機嫌で斎川を誘った。
無邪気ともいえる笑顔を向けられ、斎川の頬も自然に緩む。
だが斎川は、伊佐の誘いに首を振った。
「私は止しとくよ」
「具合悪いですか?」
「いや、今夜のうちにロケ中にたまった仕事を片付けてしまおうと思ってな。そうすれば明日は一日ゆっくりできる」
明日と明後日は完全にオフだ。しかしそれは伊佐の話で、斎川も一応オフではあるが事務所社長としての仕事がないわけではない。
留守番は事務職の女性がしてくれるが、仕事の依頼をさばき、海外からのメールの対応をし、モデルたちのスケジュールを組むのは斎川の仕事だ。大きな事務所なら秘書的立場の人間に任せてしまう仕事でも、所属モデルが伊佐を入れても両手の指に達しない斎川の事務所にはそんな立場の社員はいない。
「ゆっくり温泉につかって疲れを取ってくるといい。明日は一緒に回ってみよう」
「――じゃあ俺、ここの宿の温泉に入って来ます。露天もあるっていうし」
「ああ。湯冷めするなよ?」
「はい」
おそらく斎川の仕事の邪魔にならないよう気を利かせたのだろう。残念そうな顔を見せたがそれを口にはせず、伊佐は部屋を出ていった。
ひとりきりになって数秒後、斎川は大きく息を吐いて肩の力を抜いた。
伊佐には気取られなかったようだが、ひどく緊張していた。この調子で二晩過ごすのかと思うと気が遠くなる。
ふたりでいるのが嫌なのではない。だが、迫られるとどうしていいか判らなくなる。伊佐の体に触れることへの恐れと、求められることへの戸惑いがどうしても消せないのだ。
迫られても軽くいなせる程度の人生経験はある。しかし、伊佐相手だと、それが出来ない。
斎川はモヤモヤとしたものを振り払うように強く頭を振って、ノートパソコンの電源を入れた。
新たに受信したメールと、昨夜読むだけは読んだメールに再度目を通し、優先順位の高い順に処理していく。仕事の依頼、オーディションの告知など、早急に対処の必要でないものを分類してバックアップを取り、斎川は腕時計に視線を移した。
伊佐が出て行って2時間近くが経過している。ホテル内の浴場に行ったにしては帰りが遅い。
心配になり腰を上げたその時、
「うわっ!?」
不意に後ろから抱きしめられて、斎川は思わず声を上げた。慌てて背後に視線をやると、唇に笑みを浮かべた伊佐と目が合った。
「いつのまに――」
「ついさっき戻って来たところです。そろそろ終わる頃かなと思って」
抱き締める腕に力を込めながら、伊佐は斎川の髪に頬をすり寄せた。そして、斎川を上向かせてまなじりに口づけを落とす。
「――…ッ」
甘い仕草に動揺し、思わず体に回されている伊佐の手を掴んだ。それを肯定の意と取ったのか、斎川の顎に手を添えたまま伊佐はキスを寄越した。
避ける間もなく深く口づけられ、舌が滑り込んでくる。いつの間にかこんなキスにも慣れてしまったが、今日のは単なるふれあいとは違う。伊佐の手が熱い。
斎川を抱え込むようにして、伊佐が背後から側面に回った。そして、口づけの角度を変えながら斎川のシャツのボタンに手を掛ける。
「伊佐…ッちょっ、待――」
「ああ、ごめんなさい。ベッド行きましょうか?」
「そうじゃなくて、ちょっと待ってくれ…っ」
斎川は伊佐の胸に手をついて、腕の長さぶん伊佐から離れた。
遠ざけられた伊佐の眉が、訝しげに寄せられる。
「斎川さん、まさか――この期に及んで嫌だと言うつもりですか?」
「……伊佐、あのな」
「こんなおあつらえ向きの舞台を自分で用意しておいて、それでもダメだって言うんですか?」
ひと月以上もの間、呆れつつも根気強く斎川の了解を待っていた伊佐の目がいつになく険しくなる。
「この宿を取ったのはイタリアから戻った直後で――」
「貴方が俺を拒んだのはひと月以上前ですよ? キャンセルは可能だったでしょう」
「拒んだわけじゃ」
「じゃあなんだっていうんですか!」
好きだと告げられた日に初めて斎川に見せた怒りよりさらに激しさを増して、伊佐が斎川の言葉を遮った。
斎川を見るときはいつも甘く微笑んでいる伊佐の顔に怒りの朱が差して眉間が険しく歪む様を、斎川は半ば陶然と見つめた。
仕事としての笑顔ではない、正直な生の感情のすべてが向かってくることへの喜びと戸惑いが綯い交ぜになって胸に渦巻く。場にそぐわない感情だとわかってはいるが、溢れるそれは止まらない。
「その気がないならプライベートでこんな状況に持ち込まないでください。浮かれた俺が馬鹿みたいじゃないですか」
「そんなつもりは」
「ないなんて言わせませんよ」
伊佐の手が距離を保とうとする斎川の腕を押しのけて、長い足が2人の間の距離を一気に詰めた。そして、斎川の両手首をそれぞれ掴んで動きを封じる。
「山の中の温泉で、2日間も2人きりで、貴方の寝息が聞こえる距離で眠らなくちゃならないなんて、そんなひどい仕打ちをするつもりだったんですか?」
そういうことなら斎川とてまったく同条件なのだ。伊佐を愛しいと思う。触れたいとも思っている。だが、伊佐が望む先まで踏み込むことを迷っていたことは事実なので、斎川はひと言も言い訳出来なかった。
斎川の沈黙をどう取ったか、伊佐は鼻先が触れる程近くに顔を寄せて斎川の目を覗き込んだ。強いまなざしにはまだ怒りの色がある。
「俺は貴方ほど大人じゃないんです、斎川さん。健康な成人男子なんで我慢にも限度があるんですよ」
言うなり、伊佐は身を屈めて斎川の腹に肩を押しつけるようにしてそのまま担ぎ上げた。
「伊佐!?」
元はモデルをしていた斎川は、決して軽くも小柄でもない。その斎川を流れるような動きで肩に乗せた伊佐の力に驚いた斎川は上体をひねって伊佐を見たが、片手で大腿部を、もう片方の手で膝裏をしっかりと押さえ込まれているため、頭頂部から向こうは見ることが出来ない。
伊佐は和室を横切ってベッドルームに入り、ベッドに膝を突くようにして斎川を投げ出した。
仰向けに転がった斎川の体を、柔らかな布団が受け止める。それを追うようにして伊佐が斎川に馬乗りになった。
力任せに引き開けられたワイシャツからボタンが弾け飛ぶ。乱暴に胸の先を擦られて、思わず眉根が寄った。だが、そんな手荒さは急速に薄れて、脇腹を撫で上げる指先は優しい。
視線をやると、苦しげな顔をした伊佐が斎川を見下ろしていた。
「嫌なら嫌でいいんです。貴方が辛いならやめます。でも違うでしょう? …俺を、欲しいでしょう?」
問い掛けて頬に触れる指先が微かに震えている。
「傷ひとつない体でも、たとえ一生消えない傷を負ったとしても、俺は俺です。誰も代わりになれないようなモデルに、世界にふたりといない存在になってみせるから、だから斎川さん……お願いですから、怖がらないで俺に触ってください。それが貴方の残す痕なら、俺はむしろ付けてほしい」
そう言って苦しげな顔のまま伊佐は笑った。泣き笑いに似たそれを目にして、斎川の中で何かが音を立てて崩れ落ちる。
欲しているのも触れたいと思うのも、動いて言葉を発して意思を込めて斎川を見る伊佐という人間そのものであって、誌面の中やブラウン管の向こうや舞台の上だけのモデル“伊佐”ではない。
たしかに美しくあることはモデルの努めだが、人を惹きつけるのは整った外見以上に内から溢れ出るものがあるからだ。それがあるからこそ、欧米人が圧倒的に有利な欧州のコレクションにも立つことが出来る。
見た目だけのモデルが消えていく様を何度も見て来たのに、伊佐そのものを知ったからこそ愛しいと思ったのに、いつの間にかモデルである伊佐を大事にすることしか考えられなくなっていた。
壊れ物のように扱わなければならないほど、些細な傷のひとつで輝きが失せてしまうほど、“伊佐”というモデルは弱くはない。
斎川は、靄が晴れたかのように澄んだ視界に在る伊佐に手を伸ばした。
左の肘をついて体を起こし、右腕を伊佐の首に回す。触れるだけのキスをして唇を離すと、伊佐の眉間が和らいで目が笑みに細められた。
伊佐からの深い口づけを、斎川は避けなかった。
のし掛かられるまま抱き留めて、舌を絡め返す。先刻までの恐ろしさはすっかり薄れ、伊佐の首に回した腕に力を込めた。
「すまなかった」
やがて唇を離した伊佐の髪を撫で、斎川は謝罪した。
「今度こそ、丸ごと俺のものになってくれますか?」
「ああ」
頷いた斎川に、伊佐がにっこりと笑い返す。
「やさしくしてくださいね」
斎川の服を器用に剥ぎながら言う伊佐に、それは下になる者の台詞ではないのかと思ったが、斎川はあえて反論せずに伊佐の手に身を委ねた。
「…さ、かわ…さ…ッ」
荒い息を押し分けるようにして、切れ切れに伊佐が斎川を呼ぶ。
髪を掻き乱されて、斎川は伊佐の脚の間から顔を上げた。
「どうした?」
「……なんで俺だけ…っ」
必死に呼吸を整えながら伊佐が訴える。
「俺だって貴方に触りたいんです」
「いままで散々逃げ回って待たせてしまった詫びに、先におまえを悦くしてやりたいと思ったんだが」
体も起こしたが手で触れたままで斎川は答えた。指の腹で先端をゆるく撫でられて、伊佐がびくりと身を震わせる。
「それにおまえ、触ってくれと言っただろう?」
「言いましたけど、…っ」
硬度を増したそれに先走りを伸ばすようにして扱かれ、言葉に詰まった伊佐が斎川の上腕に縋り肩に額を擦りつけた。
どうやら、普段は落ち着いていて大人な伊佐が自分の前でだけ取り乱す様を見るのが好きらしいということに、いまさらながら斎川は気が付いた。そして、伊佐に甘えられると断れないことに、断れないばかりか最大限のことをしてやりたくなるということにも気付く。
伊佐の“お願い”に弱いということは自覚していたが、甘いにも程がある。
しかし斎川は、そんな自分を受け入れることにした。どんなに翻弄されても、伊佐を手放せないことには変わりない。
「…あ……も、斎川さ…ん…ッ」
手の動きを早めながらうなじをくすぐるように撫で上げると伊佐の肩が震え、斎川の腕を掴む手に力が入る。
やがて、伊佐が短く息を飲んで小さく呻き、斎川の手の中に熱い滾りを解き放った。
「――……」
「伊佐?」
「…なんでそんなに手慣れてるんですか…」
「手慣れてたか? …まあ同じ男だしな」
どこに触れると感じるかは、基本的には大抵同じだろう。伊佐にとってどこが悦いのかは、顔と反応を見ていれば判ることだ。それくらいの観察をする余裕を持てるくらいには年を取っている。
「年の功、かな」
口にしてからしまったと思ったが、遅かった。
「散々焦らしまくったくせに、ホント、貴方って人は――」
年下であることのコンプレックスと先にいかされたことへの悔しさが滲み出る恐ろしく爽やかな笑顔で、伊佐は斎川の膝に手を伸ばした。そして、両足をすくい上げるようにして斎川を仰向けに転がす。
「ハイ、交替。次は俺の番です」
宣言した伊佐は、掴んだ足を離さずになおも持ち上げると、簡単に斎川を俯せにしてしまった。
「い、伊佐」
背中を晒す心許無さと妙な気恥ずかしさに腰を浮かせた斎川に、してやったりとばかりに伊佐が手を伸ばす。布団と体の隙間に滑り込ませた手で斎川のものを撫で上げて、背中の中央に唇を押し当ててから伊佐が囁いた。
「腰、もっと上げてください」
「そ…っ」
んな恥ずかしいことが出来るか――という続く言葉は、喉の奥に張り付いて剥がれることはなかった。背筋に舌を這わされ、所々を軽く啄まれ、微かに腰を走っていく痺れに息を飲む。
股間だけでなく尻も撫でられた時には、思わず這って逃げようと身を捩った。だが、この期に及んで逃がしてくれるほど、伊佐自身も伊佐の逆襲も甘くはなかった。
「駄目ですよ。ちゃんと解さないと辛いのは斎川さんですよ?」
「ほぐ…っ…アッ」
双丘を押し開かれて、伊佐の指がまだ固く閉じている蕾の上を撫でた。その指先が思いがけずとろりと濡れていて、驚きの声が口をついて出る。
「いま何――を!?」
思わず振り向いたその拍子に視界に飛び込んだ枕元の物体に、言葉尻が半疑問形に変わった。
蓋の開いている美容クリームらしきチューブは男性用で、モデルという職種上よく見掛ける。その隣りにあるものも初めて目にするものではないが、いつからそこに、そしてどこから出したのだろうか。
「武内さんオススメのクリームと普通のコンドームがそんなに不思議ものですか?」
「接点ないものだろうが――ってそうじゃなくって」
「…ああ」
皆まで言わずとも察したらしい伊佐は、ふっと口角を上げた。
「実は、風呂に行く前に枕の下に仕込んでおきました」
「な…」
「ないと困るものだけど、堂々とベッドサイドに置いとけるような状況じゃなかったし」
「――ロケ中からそのつもりだったのか…?」
ずっと機会を狙っていたのだろうか。それにしては、ホテルで隣室だった斎川の部屋に忍んできたことはない。
「いいえ。今回に限らずいつも持ってましたよ。いつチャンスがあるかわからないんで」
しれっと言い放った伊佐は、会話の最中止まっていた手を再び動かし、輪を描くように周囲を撫でた中指の先をほんの少しだけ押し込んだ。
慣れない感触に体中が強張ったが、嫌悪感はない。
「入れますよ?」
斎川の答えを待たずに動いた指は、第二関節あたりまでするりと内側へ消えた。
「伊、佐…っ」
「痛い?」
「いや、痛くは……だけど――」
「だけど?」
猛烈に恥ずかしい。
斎川の手に反応していたときのかわいさはすっかり鳴りを潜め、にこやかにごり押しするいつもの伊佐の背中に、黒い翼の幻影が見え隠れする。斎川は、赤くなった顔を見られないように枕に顔を埋めた。
そうこうしているうちに、伊佐の指はさらに奥を目指して入り込み、探るように動き出した。慎重に、だが丹念に掻き回されて、シーツをたぐり寄せるように握りしめる。そして指先が一点を掠めると、大袈裟なくらいに体が跳ねた。
「ここ…?」
いつの間にか背中に覆い被さるようにしていた伊佐の囁き声が、顔を上げた斎川の耳元に降ってくる。
「…あ、っ…」
同じ場所を擦られて、思わず声が溢れた。熱いものが体の中心に集まっていくような感覚に反射的に体を固くした斎川に構わず、伊佐はらさにもう一本指を追加した。
「ン…ッ」
途端に圧迫感に襲われた。しかし、先ほどと同じ刺激が斎川の体から力を奪う。逃れようとする危険察知の本能が、もたらされる悦楽にねじ伏せられ、急速に息を上げていく。
「ふ、ぁ…ッあ――伊佐…っ」
決して激しくはないが、それだけにもどかしくやるせない前後への刺激がたまらない。すっかり膝は崩れ落ち、伊佐にされるがままだ。
もういかせてくれと胸の内で懇願すると、それを感じ取ったのか、耳朶に息がかかるほど近く顔を寄せて伊佐が囁いた。
「ダメですよ、まだ。もう少し我慢してください」
「ど…して……」
乱れた息の間隙を縫って問うと、耳元で笑う気配がした。
「俺のでイッてください」
吐息混じりに囁かれ、斎川の中から指が引き抜かれる。続けて、側臥状態だった体が仰向けに返された。
枕元に放置されていたコンドームに伊佐の手が伸びる。引き戻され、数秒間を空けて伊佐が斎川の両脚の間に入り込み、そして、息をつく間もなく指ではない別のものが押し当てられた。
「……ッ」
未知の感覚に、斎川は息を呑んだ。指よりも太く熱いものが、ゆっくりと押し入ってくる。
「苦しいですか…?」
入口の抵抗を押し退けて己を埋め込み、細く長く息を吐き出してから伊佐がそっと問い掛けた。
しかし息苦しさと、指とは比べものにならないくらいの圧迫感に襲われている斎川には、答える余裕がない。だが、それでももう逃れたいとは思わなかった。
斎川は、手を伸ばして伊佐を引き寄せた。そうすることでさらに息苦しさは増したが、かまわず伊佐に口づける。
僅かに顔を歪ませながら甘く微笑んだ伊佐が斎川の頬をそっと撫ぜ、再びゆっくりと動き始めた。
伊佐が願うなら、望むのなら、このくらいの苦しさなどどうでもいい。
じわじわともたらされる目の眩むような何かが苦痛なのか悦楽なのか判らぬまま、斎川は伊佐を抱きしめた。
額にかかる前髪をかき上げられる気配に、斎川は瞼をこじあけた。
ぼんやりと視線を巡らすと、伊佐の顔が目に入った。
「おはよう、斎川さん」
伊佐が肘をついて体を少し起こし、斎川を見下ろしている。挨拶からして夜が明けているらしい。
気こそ失わなかったが呆然と脱力し、そのまま寝入ってしまったようだ。ひどく気怠いがそれは不快なものではなく、甘さを伴っている。しかし言葉に出来なかったので、黙って髪から頬へと下りて来た伊佐の手の甲に触れた。
「大丈夫ですか? 痛いところない?」
「――痛いというか、だるいというか…今日がオフでよかったよ」
伊佐の問いに答えて斎川は苦笑した。それを受けて、伊佐の表情が申し訳なさそうに曇る。
「ごめんなさい……次はもっとやさしくしますから」
「十分優しかったと思うが」
荷物のように運ばれ、ベッドに投げ出されて乱暴にシャツを脱がされたこと以外は、斎川に触れる伊佐の手は優しかった。
「慣れないことをしたせいだろう、いい年だしな」
「なに言ってるんですか。斎川さんはまだまだ若くてかっこいいですよ」
社長が酒太りや中年太りをしていたら、モデルたちへの自己管理の指導に説得力がないだろうという理由から適度な運動を心懸けているからか、モデル時代とそれほど変わらない体型を保ってはいる。しかし、まだまだ若いかと問われると、自信を持ってそうだとは言えない。
「本心ですよ」
黙ってしまった斎川に、伊佐が念を押した。
斎川は苦笑を浮かべて手を伸ばし、伊佐の髪を撫でた。その拍子に腰のあたりに鈍痛が走る。
僅かに眉を寄せた斎川に気付いて心配そうな顔をした伊佐に、斎川は笑って見せた。
「大丈夫。大したことないから」
「――ホントにすいませんでした。こんなつもりじゃなかったんですけど」
「何がだ?」
「もっとゆっくりと、時間をかけて少しずつ慣らしてって思ってたんですけど、結局なんか――我慢がきかなくて」
伊佐は、決まり悪そうに明かして、斎川から視線を逸らした。
そうは見えなかったのだが、伊佐にも余裕があったわけではないのだとわかり、斎川は少々ほっとした。
モデル“伊佐”のファンである世の女性たちのように、スマートで完璧な二枚目を伊佐に求めているわけではない。
もちろん、所属事務所の社長として、そして元は同じ世界にいた者として、モデルとしての“伊佐”に期待と敬意を抱いている。外見だけでなく人格も出来ていると評価してくれる声もある。だが、斎川にとってはそれだけではない。
斎川がいれば何でも出来るのだと嘯き、願いを聞いてくれと甘え、時に取り乱した様も見せてくれる、そんな伊佐も愛しいと思うのだ。
「ああそうだ、ホラ、斎川さん」
何を思い立ったのかふと顔を上げて体を起こし、伊佐は斎川に背中を見せた。
「なんともないでしょう?」
確認を求められて、斎川は昨夜の自分を何となく思いだした。
しゃにむに縋りついたような気がするのだが、確かに伊佐の背中にはなんの痣も爪痕もない。
「まだ怖いですか?」
斎川に向き直って、伊佐が尋ねた。
そういえば、すっかり忘れていた。しかしそれを言うと怒り出しそうなので、斎川は苦笑して首を横に振って見せた。
出来ることならどんな傷も痕も付けたくない。だが、伊佐に請われたらおそらく――
「次はちゃんと、貴方のものだって跡(しるし)を付けてくださいね」
微笑んで、伊佐は斎川の唇に軽くキスをした。
休日はまだ、始まったばかり。
−終−
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