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『カワイイヒト。』
イタリアから帰国して、1ヶ月が過ぎた。
“モデル・伊佐”の世界の舞台へのデビューは順調すぎるほど順調に華々しく果たされ、伊佐の生活は一変した。
しかし、度重なる取材、撮影、取材、撮影――そんな毎日でも伊佐は疲労など感じることなく、渡欧前とまったく同じテンションとコンディションで仕事をこなすことができた。
すべては所属事務所の社長である斎川のおかげだと、伊佐は思っている。
伊佐の望んだ通りイタリアまでついて来てくれた斎川は、雑事や面倒ごとの全てを引き受けてくれた。
もちろんモデルとしてはいつも通りにあたたかくも厳しく甘やかすことなどなかったが、その他のことならば、たったひとつを除いてどんなことでもしてくれた。
そして、帰国後も公然と斎川がそばにいてくれるようになるとは、伊佐は思ってもみなかった。たとえそれが、表向きは事務所社長と所属モデルという形でも、だ。
周囲の盛り上がりなどどうでもよかった。斎川に望まれてイタリアに行き、その結果を斎川が喜んでくれて、日本に戻って来てからも常にそばには斎川がいる。伊佐にはそれが、何より嬉しい。
けれども、ある日の撮影の最中に疑念が湧いて、伊佐の胸を満たした。
イタリアで斎川がしてくれなかった、ただひとつのこと。
それが抱いた疑念と結びつくのかどうか、伊佐は問おうにも問えずにいた。
「この色――」
帰国して2週間後のファッション誌のグラビア撮影の場で、カメラマンの檜山がぽつりと呟いた。
伊佐用に用意されていた数点の中にあった、青みがかったグレーのスーツを手にした檜山は、少し離れて立っていた斎川に歩み寄ってその半身にスーツをあてがって眺める。
「やっぱりだ。あんたに似合う」
「なに言ってるんですか」
斎川は苦笑した。すでに現役を退いて久しい斎川に似合っても仕方がない。
「この色、初めて会った時にあんたが着ていたスーツの色に似てるよ。テキスタイルは別だが」
「あれはショー用のオートクチュールでしたから」
「あの頃、あんたほどスーツが似合う日本人モデルはいなかった」
檜山は、日頃の彼らしくない懐かしげな色を瞳に宿して薄く笑った。斎川も、微苦笑を浮かべて檜山を見る。
「煽てても何も出ませんよ」
「いまでもあんた以上にスーツの似合うモデルはいねえよ」
「そんなわけないでしょう」
「本気で言ってるんだぜ? でもあんた、スーツ以外はイマイチだったんだよな」
「ひどいな。持ち上げといて落とさなくてもいいじゃないですか。本当のことですけど」
溜め息をついて宙を仰いだ斎川に、檜山が声を上げて笑った。
伊佐は、そんな気安げな二人の様子を、ヘアセットをしてもらいながらそわそわと落ち着かない思いで見ていた。
9年前までモデルをしていた斎川は、この業界に知り合いが多い。モデルだった時分に共に仕事をしたスタッフやカメラマンはいまでも業界に多数いて、同年代でまだ現役のモデルもいる。
だから、スタッフやモデルと親しげな斎川の姿など見慣れているのだが、相手が檜山になるとどうにも落ち着かない。
気難しそうに見える檜山が朗らかに笑うからだろうか。斎川に、他の誰かと区別をしている素振りはないのに、どこか特別に親しげであるように見えてしまう。
「伊佐くん〜? 疲れてるだろうけど、眉間にしわ寄せちゃ駄目よ〜」
背後から正面に回り込んで、ヘアメイクの武内が言った。檜山がチーフカメラマンの現場では武内と会うことが多い。
「寄ってました?」
「しっかりね。やっぱり最近仕事キツイ?」
「そんなことないですよ。社長がちゃんと調整してくれてるから無理は全然してないし」
「そうね。斎川さんがついててくれるなら安心だわ。あの人、モデルのケアをしっかりしてくれる人だから私たち助かっちゃうのよね」
「そうなんですか?」
バランスを見ながらメイクを微調整していく武内のするに任せ、目を閉じたまま伊佐は尋ねた。
「斎川さんのトコのモデルさんは、みんな肌がキレイよ。斎川さんって体のケアに厳しいでしょ? それに、伊佐くんもだけど、簡単には音を上げない根性ある子ばっかりなのよね」
「へえ…」
この業界に飛び込んでまだ1年ちょっとと長くないうえに、他の事務所のこともよく知らない伊佐は、斎川のすることが普通なのだと思っていた。
仕事帰りにどこが疲れているのか言い当ててケアの方法を教えてくれるのも、やさしいけれど決して甘やかすことはせず時に厳しく叱るのも、斎川のそれはよりしっかりと徹底したものだったらしい。
斎川を誉めてくれる武内の言葉に、伊佐は自分が誉められた以上に嬉しくなって微笑んだ。
「肌のくたびれたモデルさんをキレイに見せるのも私らの仕事だけど、甘いもの食べ過ぎてニキビ作っちゃったりなんてのはモデルの自覚不足だからね」
「そういうのを気をつけるのはあたりまえの事じゃないんですか?」
「その“あたりまえ”をさらっと出来ちゃうのが斎川さんの指導の賜物ね。――ハイ、出来た」
武内は、伊佐の回りをぐるりと1周歩いて点検して言った。そして、両手で立つように促されて、伊佐は腰を上げる。
長身で手足や頭身のバランスが良くなければ似合わないスーツを難なく着こなしている伊佐を見上げて、両手を腰に当てた武内は満足げに微笑んだ。
「完璧。檜山センセに文句は言わせなくってよ〜」
「檜山さん、武内さんに文句言う?」
「言うわよー。あの人、誰にだって厳しいもの。ただでさえ口は悪いし、あの不機嫌そうな顔でダメ出しされるキョーレツさったらないわよ」
嘆息する武内に、伊佐はいまだ斎川と話している檜山に目を遣った。
「でも、いま笑ってるじゃない」
「そういえば、斎川さんにはちょっと柔らかいわね。ダメ出しは厳しいようだけど。スーツ以外の服だってかっこよかったわよー」
武内の何気ないひと言に、伊佐は思わず胸元を押さえた。チクリと胸の奥が痛む。
それがなんなのか、伊佐にはよく解っていた。
伊佐の知らない斎川を知り、斎川にだけ気を許しているような檜山への――嫉妬の痛みだ。
帰国後初めて檜山と仕事をしてから、さらに半月後。
伊佐は、檜山が毎号手掛けているアート誌の表紙の撮影でスタジオにいた。
この数日眠りが浅いせいか、白いライトがやけに目に眩しくて体が重い。
それでも伊佐は、笑ってカメラの前に立った。斎川が見ている。心配をかけたくない。
しかし、たかだか1年と少しのキャリアでは、業界屈指の腕をもつカメラマンの目を誤魔化せはしなかった。
「伊佐〜。やる気がないんなら帰るかー?」
撮影を始めて1時間ほど経った頃、ファインダーを覗いていた檜山が不意に上体を起こして言った。
仏頂面はいつも通りだが、向けられた視線に苛立ちの色がある。
「いいえ。あります」
伊佐は慌てて返答した。しかし檜山は、大きく溜め息をついてカメラの前から離れた。
「ちょっと頭冷やしてこい。1時間休憩」
投げやりな声で言い放ち、スタジオの隅に置いてあった上着と煙草を手にした檜山は、足音も荒くスタジオから出て行ってしまった。続いてスタッフの大半もぞろぞろと持ち場を離れてゆき、伊佐は1人取り残される。
そして斎川が、立ち尽くす伊佐の元へゆっくりと歩み寄った。
「とりあえず控え室で休もう、伊佐」
斎川にやさしく背中を押され、伊佐は無言で頷いて斎川の手の導くままに控え室へと向かった。
控え室に到着するまで、斎川はひと言も口をきかなかった。その沈黙がどことなく怒りに満ちているような気がして、伊佐はいたたまれない思いで黙って歩き続けた。
伊佐を控え室に入れた斎川は、部屋には入らずに踵を返す。そしてすぐに戻ってきて、伊佐にカップのコーヒーを手渡した。
「……ありがとうございます」
斎川は無言で、紙コップを両手で包んで俯いている伊佐の頭をそっと撫でた。
そして伊佐を座らせて、自分もその傍らに腰を下ろす。
「少し疲れたか?」
帰国してから仕事は増える一方で、斎川が何とかスケジュールのやり繰りをしているが、伊佐はこの1ヶ月で完全オフの日が1日もない。
しかし、伊佐よりも斎川の方が数段大変なはずだった。伊佐のマネージメントに加え、事務所社長としての仕事もあるのだ。半日のオフすらないだろう。
伊佐の仕事に付き添っている時も、僅かな時間を見つけては頻繁に電話をかけ、ノートパソコンを開いている。伊佐にばかりかまけていて他の事が疎かになっていないのは、事務所内からなんの不満も出ていないことからもわかった。
そんな斎川を前にして、疲れているなどと言えない。伊佐は、首を横に振って斎川に答えた。
それに、檜山を怒らせたのは寝不足や疲れで集中力が欠けていたことだけが原因なのではない。考え事をしていたせいだ。
考え始めたのはひとつの事柄についてだが、考えれば考えるほど気になることが増殖していき、檜山が声を掛けた頃には、もうそのことで頭がいっぱいになっていた。
このところよく眠れないのも、その考え事のせいだ。それでも仕事の間は忘れていられたのだが、檜山の関わる仕事ではそうもいかなかった。檜山の顔を見るたび、声を聞くたびに、否が応でも思い出してしまう。
斎川は、伊佐の沈黙をどう受け取ったのか、黙り込んで俯いている伊佐の形の良い後頭部に片手を添えて、スーツの肩に抱き寄せた。
「2人きりで控え室にいる時くらいは、疲れたって言ってもいいんだぞ?」
「…仕事中なのに?」
「ここには私しかいないからな」
やさしく言った斎川の唇が、伊佐の額に掠めるようにして触れていった。
斎川のキスは、いつも痛いほどにやさしい。
イタリアでも、2人きりでいる時には何かを確かめるようにキスを求め、斎川はそれに応えてくれた。それだけでなく、時にわがままとも取れる伊佐の願いを、いつも何度でも聞いてくれた。
たったひとつを除いては。
不意に、伊佐の胸がチリチリと焼け始める。
いまならば、拒まれ続けたそれを許してくれるだろうか。
伊佐は、斎川の背に両腕を回して抱きしめた。
「伊佐? どうし――ん…ッ」
皆まで言わせず唇を塞いだ。逃げられないように無理な姿勢で抱きすくめて、抗議の言葉が放たれる前に舌を滑り込ませる。
「ふ…っ、ぅ…伊佐、やめ――…ッ」
息を継ぎ角度を変える合間を縫って斎川が抗ったが、伊佐にはやめる気などない。それどころか、より深い口づけを求めて舌を絡め、歯列をなぞり、腕に力を込めた。
「…は…ぁ…ッ」
長い口づけの末に唇を開放すると、斎川は喘ぐように酸素を求め、力の抜けた体を伊佐の腕に委ねた。伊佐は、額に、頬にキスを降らせて斎川の腕を引く。
「斎川さん、立って」
至近距離で微笑んで甘く囁くと、斎川はよろよろと立ち上がり、伊佐の腕の導くままにその膝の上に腰を下ろした。
伊佐は再度斎川にくちづける。そして、スーツの上着を肩から滑り落として先ほどまで斎川の座っていた椅子に放り投げ、隙なく締められたネクタイの結び目に指を差し入れて引き抜いた。
「い、さ……よせ……」
「嫌です。やめません」
ワイシャツの胸を寛げて首筋に顔を埋めた伊佐の体を押し返して斎川は拒絶するが、腕に力が入っていない。
斎川の訴えをにべもなく却下した伊佐は、ワイシャツのボタンをすべて外し、アンダーシャツをたくしあげて、指の腹で胸の先端を擦った。
「……ッ」
直接的な刺激に、斎川の体がびくりと震えて強張る。追い討ちをかけるように、左の鎖骨の下をきつく吸った。
「……伊佐…っ」
「斎川さん……」
たまらず伊佐の頭部をかき抱いた斎川の素肌を指と唇で辿りながら、初めて触れるその感触をひとつも残らず全身で記憶するために、伊佐は万感こめて斎川の名を口にした。
くすぐるように背筋を撫で上げ、滑らせた唇で胸の突起を弄ぶ。外気に晒されていたもう片方を爪の先で引っ掻くように刺激すると、伊佐の頭を抱えていた斎川の両手がもどかしげに髪を掻き乱した。
「ンッ……あ、ぁ…ッ離し――」
荒い息を吐きながら、斎川が弱々しく頭を振って懇願する。
「離しませんよ」
やっと触れられたというのに、そう簡単に離せるわけがない。伊佐はきっぱりと斎川の懇願を拒み、キスの雨を降らせ続けた。
いつもは一分の隙もないスーツ姿の斎川が、伊佐の手指と口唇で甘く乱れていく様がたまらなく愛しい。
甘い口づけもやさしい抱擁も惜しみなく与えてくれた斎川が、ただひとつ許してはくれなかった、素肌に触れ体を重ねるという行為。
ずっと、こうやって触れたかった。
それなりに愛されているとは思っていた。だから、心底嫌がっているわけではなく決心がつかないのだろうと、伊佐はただ待ち続けた。
けれども、もう待てない。
伊佐の右手が斎川のベルトのバックルを外し、ジッパーを引き下ろす。スーツの布地をかき分けて忍び込み、硬くなりつつある斎川のものを下着の上からそっと撫で上げた。
その刹那、
「……わあぁッ!!」
伊佐の腕の中でぐったりと脱力していた斎川が唐突に背筋を伸ばし、大声を上げて立ち上がった。その反動で、伊佐の座っていた椅子が大きく揺らぐ。
「え? わ! うわ!」
突然のことに崩れたバランスを立て直せないまま、伊佐は椅子ごとひっくり返った。
派手な音を立てて転がる椅子の音と、扉の閉まる大きな音が同時に控え室内に響き、起き上がった伊佐が視線を巡らせると、そこにはもう斎川の姿はなかった。
「ちょ…っと! 斎川さん!」
伊佐は慌てて立ち上がり、斎川が向かったであろう場所へ直進した。部屋に備え付けのトイレのドアを、数回拳で叩く。
「斎川さん! 斎川さん!?」
扉の音は、木製のものだった。控え室の扉は金属なので、斎川は間違いなくこの中にいる。
「斎川さん!」
扉に張り付いて、中に向かって声を掛ける。しかし、すぐそこにいる気配はするのだが、斎川からはなんの返答もない。
「出てきてください、斎川さん。お願いですから」
伊佐は、扉を叩くのをやめて、囁くように懇願した。それでも、斎川からの応答はなかった。
「……斎川さん」
室内に静寂が満ちた。
不意に、忘れかけていた疑念が胸を突く。そんなはずはないと、すぐに打ち消した。
でも。
それならば何故、斎川は伊佐を拒絶するのか。
「斎川さん……俺のこと好きじゃない? 他に誰か、好きな人いる…?」
扉の向こうで、身動ぐ気配がした。
「違う、伊佐」
「じゃあどうして逃げるんですか?」
「違うんだ、伊佐。ただ――」
「俺より、檜山さんのほうが好き?」
どうしても頭から消せなかった、ずっと怖くて訊けなかったことを、伊佐は思い切って口にした。
「……どうしてそこで檜山さんが出てくるんだ?」
「だって……!」
檜山は、斎川だけを特別に扱っているように見える。斎川も、他の誰より懐かしげに昔のことを話しているように思える。
誰でもない、相手は檜山だ。たったそれだけのことでも、伊佐には大きな事に思えるのだ。
伊佐は、審判を待つかのように斎川の言葉を待った。
やがて斎川は、記憶を探るようにゆっくりと話し出した。
「――檜山さんと初めて会ったのは16年前で、檜山さんも私も駆け出しの頃で――」
檜山は大学に在学中から数々の賞を獲得していた新鋭のカメラマンだったが、当時は人間を被写体にすることがあまりなかった。その檜山が、仕事として本格的に人間を撮った初めての場が、あるブランドのショーだった。
斎川は、大学2年時からモデルを始めて3年目で、初めてのショーへの出演だった。
ショーの最中シャッターを切り続けた檜山は、ちょうど斎川をファインダーに収めたその時に“人間の撮り方”の何かを掴んだらしく、程なくして人物を写した作品で賞を獲った。
檜山が撮ったショーでの1枚があるデザイナーの目に止まった斎川は、そのデザイナーのショーで一気に人気モデルとなった。
なんのことはない出会いだった。ただ、偶然にもお互いが飛躍のきっかけになっただけだ。
その後も仕事で会うことは何度もあったが、プライベートでの深い付き合いがあったわけでもなく、互いの仕事に敬意を抱いて今日に至っている――
それが檜山との関係だと、斎川は言った。
顔は見えないが、斎川の語り口はいつも通りの口調で落ち着いている。少なくとも、嘘を言っているようには思えなかった。
「わかったか、伊佐?」
言葉を発しない伊佐に、斎川が尋ねた。
「……でも、それならどうして触らせてくれないんですか? イタリアでも、日本に戻ってきてからも、はぐらかしてばっかりで。俺に触られるのは気持ち悪いですか?」
「そんなことはない! そんなんじゃない……むしろおまえの手は――」
続く言葉を飲み込んで、斎川は沈黙した。
このこと以外ではこんなにも難しい男ではないし、言葉を濁すこともあまりない。だから、肝心のことは何ひとつ口にしてくれない今の状況は、どうしたらよいのかわからなくて困る。
伊佐は、ため息をついて扉に手のひらを押し当てた。
「俺の手はなんなんですか? 言ってくれなきゃわかりません」
「……」
「斎川さん――」
沈黙を続ける斎川の名を、伊佐はいまにも泣き出しそうな声で口にした。自分でも意外に思うほど言葉尻が震える。
扉が、音を立てて揺れた。伊佐の手のひらにも振動が伝わる。
「嫌だったわけじゃない…。私だって、おまえに触れたいと思う。だが私は、その――自分で思っていたよりも……独占欲が強いみたいで…」
「……は?」
伊佐は思わず問い返した。
独占欲のあまり触れずにはいられないならわかるが、独占欲が強くて触れられないというのは不可解だ。
「だから! おまえがどんどんいい男になっていって、どこに行っても物怖じしなくて堂々とかっこよくて、周りの評価もぐんぐん上がって、皆がおまえに注目していくのを見ていたら――」
扉の向こうの斎川が、拳をひとつ打ち付けた。
「大声で言って回らなくても、誰にでもわかるものでなくてもいいから、おまえは私のものだと主張したくなるじゃないか!」
「……?」
扉越しに声を荒げる斎川の言い分がよく理解できず、伊佐は首を傾げた。
心はとうに斎川のものなのだ。誰にわからずとも自分のものだという確かなものがさらに欲しいのなら、体ごと伊佐を受け入れてくれればいい。
「だが……直接体に触られたら、歯止めが利かなくなりそうな気がして……セックスなんてしたら――おまえの体のどこかに跡を付けてしまいそうで」
「……俺が、貴方のものだって?」
先ほど伊佐が、斎川の素肌に口づけて赤い印を残したように。
「おまえはモデルで、しかもショーモデルはショーの前も最中も体を直に人目に晒すものだから、傷のひとつも付けられない。だから、自制が利かなくなるのが判っていて、おまえと寝るなんてできなかったんだよ」
言い終えて、またしても斎川は黙り込んだ。
扉越しの告白を聞き終えた伊佐は、拍子抜けして立ち尽くす。眠れなくなるほど考えに考えたというのに、よもやそんな理由だったとは思いもよらなかった。
心を落ち着けて、斎川の言ったことを反芻してみる。
いつもの、すっきりとスーツを着こなしていて頼もしい斎川の姿が、脳裏から吹っ飛んだ。
「……ッ」
伊佐は咄嗟に両手で口を塞いだ。そして、肩を震わせて溢れ出しそうな笑い声をこらえる。
この人は、この人はなんて――かわいい人なのだろう。
「…伊佐? おまえ、笑ってるだろう?」
「……笑ってませんよ」
「いーや笑ってる。今の間はなんだ」
「笑ってませんって」
「嘘をつくな嘘を!」
声と共に、突然扉が開いた。
脱がされかけたワイシャツ、下ろされたジッパーもそのままの、乱れた姿の斎川と伊佐の目が合う。
「あ……」
2人の口から同時に呟きが洩れ、我に返った斎川の顔が一瞬で赤く染まる。
そして、トイレの扉は大音量と共に閉じられ、斎川は再び立て籠もってしまった。
「ちょっ…斎川さん! せっかく出てきたのにどうしてまた戻っちゃうんですか!」
伊佐は慌てて扉に取り縋った。ドアノブをひねり扉を叩くが、扉が開く気配はない。
「斎川さんってば」
「……忘れろ」
「え?」
「いま言ったこと、全部忘れてくれ」
「嫌ですよ。忘れられるわけないじゃないですか」
伊佐は即答で斎川の願いを退けた。
こんなにも熱烈な告白を忘れるなんて、もったいなくて出来るわけがない。
「ねぇ斎川さん…。触りたい」
扉の横に立ち、壁に体をもたせて中にいる斎川へ囁きかける。
目を閉じて、睦言のように。
「仕事中に何言ってるんだ」
すぐに、拗ねたような、照れたような、ぶっきらぼうな答えが返ってきた。
「さっきは触らせてくれたじゃないですか」
「あれは…ッおまえが離さないから……」
「仕事中じゃなかったら触ってもいいですか?」
「だから…ッおまえ人の話聞いてたのか!?」
しれっとした返事を繰り返す伊佐に、斎川の声が次第に荒くなっていく。対照的に、伊佐の唇にはこらえきれない笑みが微かに刻まれている。
「聞いてましたよ。でも斎川さん、俺は出家僧でも禁欲主義者でもないから、もうキスだけじゃ我慢出来ないんです。だからね、斎川さん――跡付けたくなったら、見えないところに付けてください」
「見えないところ…?」
「いろいろあるでしょう? パンツで隠れるところとか」
「伊佐!」
思わずといった風に扉が開かれ、今度は服の乱れを直した斎川が真っ赤になった顔を出す。伊佐は、待ってましたとばかりにその手を掴んで引き寄せ、たたらを踏んでよろめき出て来た斎川の体を抱きしめた。
「つかまえた」
「……ッ」
伊佐の腕の中に閉じ込められた斎川の顔が、しまった!という表情で凝固した。そんな斎川に、伊佐はやわらかく微笑んでみせる。
「何もしません。だから、少しだけこのままでいさせて下さい」
「――……少しだけだぞ」
「はい」
伊佐は素直に頷いて、斎川を抱きしめる腕に力を込めた。
自分のものだと印を付けたいほど愛されているということが、どうしようもなく嬉しい。
大人で頼りがいがあってスマートな斎川も好きだが、照れたり慌てたり赤くなったりする斎川も愛しくてたまらない。伊佐にとって、こんなにかわいい人は他にいない。
“少しだけ”の判定基準を斎川に委ねることにして、伊佐はただ腕の中の体を抱きしめ続けた。
ややあって、斎川がふと口を開いた。
「伊佐」
「はい?」
「檜山さんだけどな」
「はい」
斎川は、それまで下ろしたままだった腕を持ち上げて、伊佐の体をそっと押した。伊佐は逆らわずに腕を緩め、斎川を解放する。
すっかり落ち着きを取り戻して、斎川は伊佐を見つめた。
「あの人は、ヘアメイクの武内さんと暮らしてるんだよ。だから、私とどうこうというのはないから」
「同棲してるってことですか…?」
「ああ」
ひとりの部屋できつい煙草をふかしながら、辛い酒でも片手にスナップの選り分けでもやっていそうなイメージを抱いていたので、
檜山が同棲していると聞いてもすぐにはピンとこなかった。しかも相手が武内となると、なおさら想像しがたい。
武内は腕はすこぶる良いがまだ若く、しっかりしていてサバサバした性格もあって、恋人は年下か、同い年か年上でも甘え上手の末っ子だろうと勝手に思い込んでいたのだが――
「…って武内さん27才――歳の差14才!?」
「私とおまえはそれ以上違うじゃないか」
「ああ、そうですよね……」
驚きと動揺を落ち着けるように、伊佐は胸を押さえて呟いた。
斎川は、伊佐から離れて倒れたままだった椅子に近づき、椅子を起こして床に落ちていたネクタイを拾い上げる。
「あの人は才能のある人が好きだから。武内さんの腕に惚れ込んで撮影スタッフに指名し続けるうちに、彼女自身にも惚れてしまったみたいだな」
「そっか……そうだったんだ……」
「……誤解は解けたか?」
ネクタイを締めながら、斎川が振り向いた。
「はい」
疑念が、夕立の後の雨雲のように消え去っている。
現金なもので、重かった体がすっきりと軽くなった気がして、視界も意識も爽快かつ明瞭だ。
ネクタイを締め直しスーツの上着を着て、いつのも大人で頼りになる事務所社長の姿に戻った斎川は、伊佐に歩み寄ってその頭部に手を伸ばした。
斎川が乱してしまった髪を手ぐしで整え、服のほこりを払って整える。
「怪我しなかったか?」
問われて、伊佐は頷いた。
すっかり忘れていたが、椅子ごと倒れたものの打ったり擦りむいたりは一切しなかったようだ。どこにも痛みはなく、見えるところに傷もない。
「そろそろ1時間だ。もう大丈夫だな…?」
「はい。すみませんでした」
伊佐は微笑んだ。もう何も、くどくどと考える必要はない。
「さ、行くぞ」
「はい」
2人は連れ立って、控え室を後にした。
スタジオへ向かう長い廊下の途中で、伊佐は斎川の袖を引いた。
「どうした?」
「あの――お願いがあるんですけど」
「お願い?」
さり気なく体を寄せて耳元で囁いた伊佐を振り返った斎川が、僅かに眉を寄せた。
伊佐の“お願い”で、何度いいように丸め込まれたかしれない。
斎川が単純なのか、伊佐が一枚上手なのか、他の誰でもない伊佐の願いだからなのか――とにかく斎川は、伊佐の“お願い”に弱い。
そして伊佐は、にっこりと笑って言った。
「今夜、斎川さんの家に行ってもいいですか?」
「――……」
悪びれずに笑う伊佐に、斎川は深いため息を洩らす。
「……まったく、どうしておまえみたいなタチの悪いのにつかまったかなぁ……」
「なに言ってるんですか。貴方だって相当ですよ」
「私のどこが?」
「そういう、自覚のないところが」
あんなに可愛いことを言っておいて、てんで自覚がないのはタチが悪いと言うよりないと伊佐は思う。
斎川は、複雑な表情でしばし伊佐を見上げていたが、やがて首筋を揉むようにして俯いて苦笑した。
「…まあいいか……。降参だ、伊佐」
言って、伊佐の背中を軽く叩いて先に立って歩き出す。そして肩越しに振り返り、
「泊まっていけ」
小声で言い放って照れくさそうな微笑を浮かべた。
伊佐は極上の甘い笑顔を返して、斎川に続いて足を踏み出した。
「始めるぞ、伊佐!」
スタジオに入ってきた2人の姿を見付けた檜山が声を張り上げる。
白いライトは相変わらず眩しかったが煩わしいものではなく、心地よい光量と温かさで伊佐を迎えてくれた。
−終−
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