『アナタナシデハ。』


「おはようございます! 社長、伊佐くん1位ですよ!」
 所属モデル全員分のスケジュールを確認していた斎川のもとへ、事務所に顔を出した女性モデルが雑誌を片手にやって来た。
 伊佐は、この1年で飛躍的に人気をのばしている、斎川の経営するモデル事務所の看板モデルだ。
「おはよう、由梨。1位って……ああ、今月は人気ランキングか」
 女性誌の企画で、3ヶ月に1度『誰が一番いい男か』というアンケートの集計結果が発表されるのだ。よくある企画だが、女性誌では最も売上の高い雑誌で、10代後半から30代後半という購読層からも、その集計結果が人気のバロメータになっていることはたしかだ。
 伊佐は初登場10位。デビューしてからの1年で2位にまで順位を上げてきていた。テレビでよく姿を見かける役者が上位を占めるランキングに、モデルのみで活動している人間が入るのは稀なことだ。
「ホラ!」
 由梨が広げた雑誌に視線を落として、斎川は嬉しげに微笑んだ。
 以前この雑誌に載ったときのグラビアだが、伊佐の写真が一番大きく掲載されている。
「あれ、おまえも載ってるじゃないか、由梨」
 ページをめくっていった先の女性モデルのランキングの中に、目の前の女の子の名前を発見し、斎川は相好を崩した。
「へっへー。やりました!」
 由梨は斎川にVサインを出して、にっこりと微笑んだ。
 女性は同性への評価が厳しい。だから、同性の支持を得られたというこの結果は、由梨にとって大きな事だ。
「頑張ったな、由梨」
「社長のおかげです。まだ18位だけど、伊佐くんみたいにもっと上を目指して頑張りますね!」
「ああ、頑張れ。おまえなら出来る」
 斎川はやさしく、そして力強く由梨を励まし、拳と拳でハイタッチを交わした。
 モデルという仕事の辛さや苦しさを十分理解しかつ力強く叱咤激励してくれる斎川を、所属モデル達は深く信頼している。
 20代の頃はモデルとして活動していたが30代で育てる側に転身、撮られる側のことにも撮る側のことにも理解が深い斎川は、39歳と事務所社長としては若年だが業界での評判はいい。
 若年であることと弱小事務所であるがゆえに、事務所間の競合では不利なことが多く、所属モデルに大きな仕事が回って来ないことが目下の悩みだ。しかし斎川は自ら現場に出て、自分の足で営業に回り、徐々に仕事を増やしつつある。
 そんな中で、斎川が最も力を注いできたのが伊佐だった。
 その体は世界へと飛び立てる。初めて会った時、本気でそう信じた。
 そしていつしか彼は、斎川の望み通りに花開かせ、願い通りに翼をはやして、軽やかに飛び立とうとしている。


「どうしても行かなきゃダメなんですか、社長?」
 伊佐は、長い足を組み替えて斎川に問いかけた。
 しなやかな体も、長い手足も、形のよい頭も、男らしく甘い顔立ちも、日本人離れしたウォーキングも、このくたびれたビルの一室をオフィスにしているしがないモデル事務所には勿体ないくらいの逸品だ。
 偶然街中で伊佐を見かけたときの喜びを、斎川は忘れることが出来ない。
 恵まれた容姿を持っているのに、どこか憎めない甘やかな表情に惹かれて、すぐに声をかけた。その気がないという伊佐を懸命に口説いて、やっとのことで事務所に入ってもらったのだ。
 彼には、容姿だけでなく心の強さも十二分に備わっている。これから世界に出ても、充分やっていけるだろう。
 斎川の直感は間違っていなかった。
「そりゃあだって、ミラノコレクションだぞ? デザイナー直々のラブコールだ。行かない理由がどこにある?」
 海外ブランドのデザイナーから直接のオファーがくるなど、日本国内での仕事しかしたことがないモデルとしては異例だ。どうやら香水のCFとポスターの仕事が目に留まったらしく、その仕事を自ら取ってきた斎川には二重三重の喜びとなった。
「あちらでのことは向こうの知り合いに頼んであるから、心配はいらないぞ」
「……行きたくない」
「伊佐?」
 これまで、伊佐がわがままを言ったことは一度もなかった。23歳と若いのに、どんなにきつい仕事も同業者のやっかみも、文句ひとつ言わず笑顔で乗り切ってきた。その伊佐がこんな風にごねるのを、斎川は初めて見た。
「どこか、具合でも悪いのか? 行きたくないその理由を教えてくれ」
 斎川は、狼狽を押し隠して伊佐に尋ねた。
 伊佐の目が、射抜くようにじっと斎川を見る。
 なんの心当たりもないのに、不安で胸が高鳴った。心拍数が上がり、体が熱くなる。
 時折向けられるその真っ直ぐな視線に、斎川はいつも、いてもたってもいられなくなる。
 だが伊佐は、何も言わずに立ち上がった。
「時間だから行きます」
「時間?」
「撮影。2時からでしょ?」
「あ」
 今日のスケジュールに入っていたメンズ雑誌の撮影のことだと理解するまでに数秒を要した斎川は、すでにドアへ向けて歩き出していた伊佐を追いかけ損ね、その場に立ちつくした。そんな斎川を、ちらりと伊佐が振り返る。
 伊佐は、何も言わずに長身を屈めてドアの向こうへ消えた。
「――伊佐……?」
 斎川はひとり、誰に届くこともない呟きを洩らし、伊佐の消えたドアをいつまでも見つめ続けた。


「なに珍しい顔してるの、伊佐くん?」
 ヘアメイク担当の武内が、鏡の中の伊佐の顔を見つめて問いかけた。
 サバサバとした性格で話しやすい武内は、腕の良い女性ヘアメイクアーチストだ。
「珍しい顔ってどんな?」
 物思いに耽っていた伊佐は、それらをすべて振り払って鏡越しに武内に笑い返す。
「なんかね〜、不機嫌そうな、拗ねたような、哀しそうな、そんな顔よ。初めて見たわ。すんごいフェロモン放出してたから、そういう顔を表でするのはやめといたほうがいいわよ」
 話ながら巧みに伊佐のメイクを進めつつ、武内は伊佐の質問に答えてくれた。
「クラッときました?」
「きたきた。彼氏とラブラブ絶好調じゃなければヤバかったわ。襲いかかってたかも」
「ははは」
「冗談じゃなくて、襲われたくなかったらやめなさいって。落としたい相手にだけ見せるといいわ」
「じゃあ、今度試してみようかな?」 
「あら、落としたいコいるんだ?」
「落としたいコが現れたら試してみるってことで」
 伊佐は、曖昧に笑って会話を流した。
 メイクを終えた武内は、続いてヘアセットに取りかかる。
 伊佐は、鏡の中の自分をぼんやりと眺めた。どこか自分ではないような、自分の知らない自分の顔。斎川にスカウトされてこの業界に入らなければ、見ることがなかった自分。
「伊佐くん、髪の毛ちょこっと切ってみる? あ、でも勝手に切ったらマズイか」
「どうして? 任せますよ。切った方が今日の撮影のコンセプトに合うんでしょ?」
「う〜ん、そうだけどー…でも、ショーの前に勝手に髪の長さいじったらヤバくない?」
「――それ、なんで知ってるんですか?」
「だってすごく噂になってるよ? この業界の人なら大抵知ってるんじゃない?」
 伊佐の髪をブローしながら、武内は軽く答える。
 海外のコレクションへの出演はとかく話題になる。たしかに知られていてもおかしくなかった。斎川にも隠している素振りはない。
 武内は、ワックスでちょいちょいと髪にニュアンスを付けながら、鏡の中の伊佐に向かって微笑んだ。
「ショーとか事務所移籍とか大変だけど、頑張ってね。伊佐くんならきっと大丈夫」
 しばらく、何を言われたのかわからなかった。武内の言葉を何回か頭の中で反芻して、やっと伊佐は武内に問いかける。
「なんですか、それ?」
「ん? 何が?」
「だから、事務所移籍って――」
「え? 違うの? やだ、ゴメン」
 武内は慌てて身を起こした。伊佐は体の向きを変え、直接武内を見上げてさらに問う。
「教えてよ武内さん。それも噂?」
「――だからね、伊佐くんのとこは小さな事務所だから、ミラノコレに出るようなモデルには大手の事務所のほうが今後の仕事の面とか、ケアとか、保険とか――よくある話だけど、そっちは単なる噂だったんだ?」
 モデルになって1年の伊佐にはよくわからなかったが、武内の口振りからして本当によくある話なのだろう。
 伊佐は、初めて会った時の斎川の言葉を思い出す。
 最初から、斎川は言っていた。初めて会った時、君は世界に飛び立てると――最初から? 最初から斎川は、伊佐が世界へ出たら、伊佐の手を離すつもりだったのか?
 伊佐の胸に、苦々しい思いが満ちた。


「伊佐〜? 調子悪いか?」
「……いえ」
 何度か一緒に仕事をしているカメラマンの檜山に問いかけられて、伊佐は首を横に振った。
「突っ立ったまま寝てるんじゃないだろうな? しっかりしてくれよ」
 40歳そこそこのこの男は、口が悪い上に気難しいと同じ事務所のモデル達に聞いていたが、伊佐はこのカメラマンが嫌いではない。撮影のリズムが肌に合うのだ。そう言ったら、斎川は「それが判るようになるには何年かかかるもんだけどな」と笑っていた。
「雨、もう一度降らしてくれ。伊佐、続けるぞ。奥から歩いてこい」
 檜山の指示に頷いて、伊佐は頭の中から斎川の姿を打ち払った。
 人工の雨に打たれ、檜山の発する言葉とシャッター音の流れに体を乗せる。
 用意されたコンセプトの中に入り込むのは嫌いではない。むしろ、全く興味のなかったこの仕事にやり甲斐を感じ始めたのも、“別の世界に入り込む”という感覚を楽しめるようになってからだ。
 どうしても自分を主張できなかった伊佐に、この方法を教えてくれたのは斎川だった。
 斎川は、困ったときには必ず手を差し伸べてくれる。だからといって過保護なわけではない。どうしてもというときにヒントをくれたり、ちょっとしたことをしてくれるだけだ。
 事務所のモデルは皆、斎川を深く信頼している。実際、斎川は優しくて頼もしい。伊佐も、斎川を信頼していた。だが――
 仕事の間はと、あえて打ち消していた感情が蘇り、伊佐は僅かに顔をしかめた。不意に猛烈な怒りが沸いて出る。
 伊佐は、その場に立ちつくした。
「伊佐?」
 檜山の声が、遠く聞こえた。
 考えまいと何度思っても、ふと斎川の言葉や姿が頭に浮かんでくる。そして、混乱する。
 伊佐のミラノ行きに乗り気な斎川と、武内から聞いたうわさ話と――
「おい、伊佐。どうした?」
 檜山が雨を止め近寄ってきたが、伊佐は答えを返さず身を翻した。
「伊佐!」
 伊佐は静止を振り切って、スタジオを飛び出した。


「わざわざすみません、斎川さん」
「いえ、うちの伊佐がご迷惑を――」
 連絡を受けてすぐさま駆けつけてきた斎川を、雑誌側のスタッフのひとりが出迎えた。文字通りスタジオに駆け込んできた斎川は、息も髪も乱れ、硬い顔つきをしている。
「幸いというか、伊佐くんひとりのグラビアですから我々が待てば済むことなんですが、さすがに1時間になりますんで」
 スタッフは、困ったように視線を移す。その視線の先にいるチーフカメラマンの檜山は、遠目で見ても立腹の様子で腕組みをして煙草をふかしている。
 斎川はすぐさま檜山へと歩み寄って、深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありません」
「斎川さんか」
 ちらりと斎川を見た檜山は、傍らのコーヒー缶を灰皿代わりに煙草をもみ消し、あらためて斎川に向き直った。
「俺は伊佐を気に入ってるよ。始めて1年にしてはいいモデルだ。あんたも悪くないモデルだったけど、育てる方が向いてたみたいだな」
「私もそう思っていたんですが――」
「皮肉言ってるんじゃないぜ。今日はいつもの伊佐と違ったよ。どうも様子が変だった」
「……そうですか」
「ま、突っ込んだ話は聞かないでおくさ。とにかくとっとと引っ張り出してきてくれ。そう気が長い方じゃないんでな」
 いつもなら、すでに彼の姿はないところだ。伊佐を気に入っているというのは嘘でも皮肉でもないのだろう。斎川は力強く頷いて一礼し、後方で待っていたスタッフの元に戻った。
「伊佐はどこに?」
「控え室です。鍵をかけてしまっていて、返事もないんです」
 斎川は、すぐさま控え室に向かった。何度か所属モデルに付き添って来たことのあるスタジオだ。控え室の場所は頭に入っている。
 控え室前までやって来て、伊佐の名の貼り紙がしてある部屋の前に立ち、斎川は部屋の扉を叩いた。
「伊佐、私だ。斎川だ」
 声をかけたが、中は静まりかえったままだ。
「伊佐? 伊佐、出てきなさい。皆、おまえを待ってるんだぞ」
 それでもなお、中からはなんの返事もない。
 だが、気配はある。僅かな衣擦れの音。ドアの向こうで、様子を伺っているのか。
「伊佐、頼むよ。せめて鍵を開けて中へ入れてくれないか? 話をしよう」
 斎川は、なるべく声を荒立てないよう注意をはらいながら、真摯に伊佐に話しかけた。
 そして、そのまま待つ。
 ――数十秒後、扉はゆっくりと開かれて、伊佐が姿を現した。


「まったく無茶をする。風邪でも引いたらどうする!」
 エアコンをつけ、自動販売機に走り温かいコーヒーを買ってきて伊佐に飲ませ、パイプ椅子に座らせた伊佐の頭をタオルでがしがしと拭きながら斎川は言った。
 濡れた衣装のままでいた伊佐の体は、すっかり冷え切っていた。
「衣装も脱いだほうがいいんだが、そうもいかないしな……」
 予備の衣装はもちろんあるだろうが、撮影はまだ途中だ。2着濡らすよりは1着だけに留めておいたほうがいい。
 斎川は、控え室にあった真新しいバスタオルを伊佐の肩に掛けると、バスタオルごと背後から伊佐を抱きしめた。
 伊佐は驚いて目を見開いたが、背中側にいる斎川からはその表情は窺えない。
「少しは温まるといいんだが」
「――大丈夫です、もう……」
「だが、まだ冷たいぞ?」
 伊佐の頬に触れて、斎川は言う。
「大丈夫ですから。それに、コーヒー飲みにくいです」
「ああ、そうだな。すまん」
 それもそうだと思ったのか、斎川はあっさりと伊佐を離した。
 離れていく手を一瞬だけ伊佐の視線が追ったが、伊佐はすぐに目を逸らし、手にしたコーヒーに口を付ける。
 斎川は、伊佐の正面に回り込んで、新たにパイプ椅子を1脚広げて腰を下ろした。
 しばらく沈黙が続いたが、コーヒーを飲み干して伊佐がひとつ息をつくと、それを待っていたかのように斎川が身を乗り出した。
「それで伊佐、どうしたんだ? 体の調子でも悪いのか?」
「――どこも悪くないですよ」
「じゃあ何故こんな事をするんだ。もしかして、ミラノ行きの件が原因か?」
 斎川にはそれくらいしか心当たりがない。もっと時間をかけて伊佐と話をしたいところだが、スタッフを待たせたままではいられず、斎川は思いきって直截に尋ねた。
 しかし伊佐は答えず、じっと俯いていた。表情も、濡れて乱れた前髪に隠されて見えない。
「伊佐?」
 斎川が伊佐の顔を覗き込もうと身を屈めたその時――
「――ッ!?」
 突然伊佐が立ち上がり、肩に掛かっていたバスタオルを斎川に投げつけた。立ち上がった拍子に椅子が倒れ、派手な音を立てて転がる。
「――貴方は最初から、いつかは俺の手を離すつもりで俺に声をかけたんですか?」
「え?」
 伊佐の険しい顔を見上げ、斎川は訝しげに聞き返した。突然何を言い出すのだと、わけが分からないといった顔の斎川に、伊佐の怒りはさらに募る。
「俺の仕事が成功したときの笑顔も、俺がどう疲れててどこが痛いのか判ってくれるのも、俺が辛い時さりげなく現場を見に来てくれるのも、全部!」
 伊佐は膝を折り、ずるずると力無く床に沈んだ。座り込んで、項垂れる。
「全部、ただ俺を売るため……?」
「伊佐……?」
 弱々しい伊佐の問い掛けに、それまで座ったままだった斎川が立ち上がった。
「それで、俺が売れれば他の事務所に叩き売るわけ?」
「叩き売るって、何を言ってるんだ、伊佐?」
「俺には選ぶ権利はないんですか? 勝手に事務所の移籍なんて決めて、そんなモノみたいに扱われるなんて、俺は――俺は、貴方に誘われたからモデルになったんですよ! 貴方の事務所だから、貴方だから――ッ!」
 混乱と困惑と、やりきれない哀しさとで、伊佐の言葉は堰を切ったように溢れ出して止まらない。
 こんなはずではなかった。こんな風に、告げるつもりはなかったのに――
「貴方が好きです……」
「――え?」
 伊佐の目が、泣き出しそうな伊佐の目が、斎川を見つめた。
 射抜くような眼差し。不安で胸が高鳴った。心拍数が上がり、体が熱くなる。
 不安で――不安で?
 胸が高鳴って、心拍数が上がって、体が熱くなるのは、いつも伊佐が斎川をじっと見つめてくる時――
「え、ええ?」
「…社長……?」
 事務所にかまけすぎて婚期を逃し未だ独り身ではあるが、斎川とて木石ではない。この感覚には覚えがある。
 見つめられて昂揚する、いてもたってもいられなくなる、不安によく似たもどかしい気持ち。
 ――もしかして。
 斎川の頬が、サッと赤く染まった。
「伊佐、あの、私は、その――」
 斎川がしどろもどろに何かを言いあぐねる。そして、手近の椅子にヨロヨロと腰を落としてしまった。
 その態度で、伊佐はすべてを察した。
 四つ足でにじり寄って、椅子にかけている斎川の膝に手を置き、下から斎川の顔を見上げる。斎川は、慌てて顔を背けた。
「……斎川さん」
 名を呼ばれて、斎川の肩がぴくりと反応する。
「斎川さん、すぐに撮影に戻るから、俺のお願いきいてくれませんか?」
「お願い?」
「ハイ」
「何――」
「キスしてください」
「んな――ッ!」
 お願いの内容の唐突さに、斎川はつい、背けていた顔を伊佐に戻してしまう。
「……ダメですか?」
 すかさず伊佐は、じっと斎川を見上げつつ、不機嫌そうな、拗ねたような、哀しそうな、武内曰く“フェロモン大放出の顔”をしてみせた。
「――ッ、この……ッ」
 至近距離から心臓直撃の眼差しを食らい、困惑と怒りの入り乱れた表情を浮かべて、斎川は低く呻いた。
 気付かないうちならまだしも、はっきりと自覚してしまっては、もうこの顔に逆らえない。
 もどかしくて、いてもたってもいられなくて――
「目を閉じていろ」
 斎川は、伊佐の頬を手のひらで包んで言った。
 一瞬驚きに目を見張った伊佐の顔が嬉しげに笑み崩れ、その瞼が素直に閉じられる。
 初めて見たそんな表情に、斎川の心臓はまたも乱れ打ちを始め、本当に呼吸が苦しくなってきた。
 斎川は、壊れ物でも扱うかのように慎重に、伊佐の唇へキスを落とした。


「良いものが撮れればそれでいいさ」
 撮影終了後、檜山はそう言って笑って帰っていった。
 続いて斎川と伊佐は、スタッフ達に揃って頭を下げて回ったが、どのスタッフも噂の件でナーバスになっているのだと解釈してくれたようで、もともと伊佐や斎川の評判がよかったこともあり、大きな問題にならずに済んだ。檜山が言い残していったように、いつも以上に素晴らしい出来でスムーズに撮影が終わったことも大きかったようだ。
 そして二人で誰もいない事務所に戻ってやっと、伊佐の誤解が解かれた。
「単なる噂だって言ってくれればよかったじゃないですか!」
「おまえだって、鵜呑みにする前にどうして私に訊かなかったんだ!」
 大手モデル事務所が伊佐の引き抜きを画策していたことは確かだが、斎川にはその気は全くなかった――というのが事の真相だ。
 蓋を開けてみれば、なんということはない。
 さらに何か言ってやろうと身構えた二人だが、しばらく睨み合った後、二人とも肩の力を抜いて息をついた。
 腰に手を当てて俯き加減の伊佐の口元が微笑みを形作り、腕を組んだ斎川も苦笑を浮かべた。
「まだ、行くのは嫌か?」
 微苦笑を浮かべたまま、斎川が伊佐に問いかける。
「行きますよ。行ってほしいんでしょう?」
「行ってほしい」
 逆に問いかけた伊佐に、斎川は素直に頷いた。
 伊佐は微笑みを斎川に向け、さらに訊ねる。
「条件、聞いてくれます?」
「条件?」
「はい」
「……なんだ?」
 斎川は、にっこりと微笑んだ伊佐に嫌な予感を覚えながらも、ものは試しと訊いてみる。
 伊佐が数歩進み出て、斎川に近づいた。
「貴方も一緒に来てください、社長」
「だからそれは、向こうの知り合いに頼んであるって――」
「来てください。貴方がいないとダメなんです、俺」
「伊佐」
 何やらおかしな方向に話が進みそうな気がした斎川は慌てて伊佐を遮ったが、伊佐は口を噤む気配を見せず、
「社長に俺の晴れ姿を直に見せたいし、そばにいたいし、一緒にミラノの街を手つないで歩きたいし――」
「伊佐!」
 たまらず声を大きくして、斎川は伊佐を止めた。
 伊佐は、そんな斎川を見つめて、
「だって社長、俺のこと好きでしょ?」
「――――」
 いけしゃあしゃあとほざかれて、斎川はまたも顔を赤らめた。これが若さか?などと思いながら、返す言葉もなく視線を逸らす。
「ダメですよ」
 伊佐は斎川の手を引いて応接用のソファに腰を下ろすと、さらに斎川を引き寄せて自分の膝の上に座らせた。
「なッ、なんなんだこの体勢は!」
「抱っこってやつですかね?」
 斎川の腰に手を回して抱きしめ、伊佐は平然と返す。
「逃げないでください」
 じたばたと暴れ出した斎川をしっかりと抱いて、諫めるように囁いた。
「お、重いだろうが!」
「全然」
「伊佐!」
「好きです」
 言われて、斎川の抵抗がピタリと止んだ。
「俺は、斎川さんが好きです。斎川さんは?」
「〜〜〜〜ッ」
 じっと見つめ、斎川だけを映す黒瞳。甘い微笑み。
――なるほど、世間の女性は、これにやられているのか。
 頭の隅でやけに冷静にそんなことを思って、斎川はとうとう観念した。
 先に惚れた者が負けならば、斎川は伊佐には勝てない。初めて見たときから、強く惹かれていたのだ。こんな感情に育つとは、思いも寄らなかったが。
 斎川は膝に自分を抱えて見上げてくる伊佐の目蓋に口づけて、その形のよい頭部をぎゅっと抱きしめた。
「私もおまえに惚れてるよ」
 耳元ではっきりとそう告げると、伊佐は斎川を引き剥がして嬉しげに笑った。そうして、斎川の唇に啄むようなキスを返し、あらためて斎川を抱きしめる。
「世界、目指すぞ」
 おとなしく抱きしめられたまま、斎川は宣言する。
「社長が目指せと言うなら。社長がそばにいてくれれば、なんでも出来るよ」
「馬鹿言え。その前に私がおまえの条件を飲まなくちゃならないんだろうが」
「だから、結局俺は、貴方なしでは生きられないって事ですよ」
 言われて、斎川は複雑な表情で身を起こした。今度は伊佐も、すんなり斎川の体を離す。
「……なにか、いいように言いくるめられている気がするんだが……」
「そうですか?」
 伊佐はしらっと言って、極上の笑顔を見せた。
 そんな笑みを見つめながら、こいつの翼は白なのか、黒なのか――そんなことを、斎川はしばし真剣に考えた。

−終−


『Act.2 カワイイヒト。』
 
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